こんにちは~。らら子です。
今回は、NHK『ファミリーヒストリー』草刈正雄さんの回を紹介します。
終戦記念日前日2023年8月14日に放送された回は、「神回」と評判になり9月19日(火)にも再放送。
2023年12月29日(金)午後9:00〜午後9:45(45分)に続編はこちらをごらんくださいね。
ファミリーヒストリー:草刈正雄さん特別編~アメリカへ決意の旅路~あらすじと結末:ファミヒス
草刈正雄さんといえば、ワタクシらら子の大好きなNHK『美の壺』の看板でもあります。
その内容は、涙なくしては見られない、切ない、そして人の温かさを感じるストーリーでした。さっそく見ていきましょう!
— ぶぶ (@yhoobooboo) August 22, 2023
目次
- 草刈正雄さんファミリーヒストリー:父はアメリカ兵で戦死?
- 草刈正雄さんファミリーヒストリー:父は朝鮮戦争から生還していた!
- 草刈正雄さんファミリーヒストリー:日米で先祖の調査を開始!
- 草刈正雄さんファミリーヒストリー:母スエ子さんのおいたちが明らかに!父の親族から手紙が!
- 草刈正雄さんファミリーヒストリー:アメリカの親族が判明!
- 草刈正雄さんファミリーヒストリー:父のおいたち
- 草刈正雄さんファミリーヒストリー:父と母のドラマチックな出会いと別れ、正雄さん誕生
- 草刈正雄さんファミリーヒストリー:母と子ふたりの生活苦から芸能界へ
- 草刈正雄さんファミリーヒストリー:芸能界での成功と父母のその後
- 草刈正雄さんファミリーヒストリー:伯母からの手紙と草刈正雄さんの決断
草刈正雄さんファミリーヒストリー:父はアメリカ兵で戦死?
生まれた時から母と二人だった草刈正雄。父は日本に駐留したアメリカ兵だが顔も知らなかった。母は「朝鮮戦争で死んだ、写真は焼いた」と多くを語らず死去。制作班は正雄の記憶にあった「ロバートトーラ」という人物を全米で探すが調査は難航を極める。半年後ようやく親族が判明。なんと父は朝鮮戦争から生還していた。父の容姿や性格、母との出会いも明らかに。「なぜ父は母のもとを去ったのか」父の姉が70年ごしの秘密を告白。
出典:番組公式サイト
草刈正雄さんは、生まれた時から母と2人で生きてきました。
アメリカ兵だった父や家族のことは、詳しくわからないまま過ごしてきたそうです。
70歳となる草刈正雄さんは、映画やドラマ、コメディーにいたるまで、様々な分野で役者として活躍されてきました。
母親のスエ子さんは13年前の2010年に、多くを語らぬまま他界されました。
草刈さんは、悩んだ末、父親のことを知ろうと決心しました。
草刈さんが聞かされていたのは、父親は朝鮮で戦死したということ。
名前はロバート・トーラー。
でも、写真は1枚も見たことがないそうです。
すべて焼いたと言われていました。
番組は、草刈さんに代わってアメリカへ。
取材は難航を極めました。
しかし、半年に及ぶ取材の結果、衝撃の事実が判明したのです。
草刈正雄さんファミリーヒストリー:父は朝鮮戦争から生還していた!
なんと、父親のロバート・H・トーラーさんは、朝鮮戦争から生還しており、亡くなったのは2013年。
ロバートさんの姉が、70年越しの真実を語ってくれました。
スタジオには、司会の寺門亜衣子さんと、今田耕司さん
そこに草刈正雄さんが、少し緊張した様子で登場されました。
草刈家の戸籍には、父親の欄が空欄です。
昭和28年、正雄さんは婚外子として生まれました。
取材班が、母方の親戚に父親の情報を集めようと試みますが、誰もが名前さえ知らないという状況。
正雄さんが母親から聞いた情報だけが頼りになりました。
名前はロバート・トーラー。
朝鮮戦争で戦死。
おじいちゃんにあたる人物が、郵便局で働いていた
これらのたった3つの情報のみで取材を進めることとなりました。
協力してもらったのは、アメリカ取材担当の竹内美穂さん。
竹内さんによると、陸軍が空軍かもわからず、所属場所もわからない。
さらに、スペルもわからないとなると、調べるのはとても難しいとのこと。
草刈正雄さんファミリーヒストリー:日米で先祖の調査を開始!
草刈正雄さんファミリーヒストリー:アメリカの父方
今回、調査に使ったのはアーカイブスドットコム(Archives.com)。
アメリカの法的に閲覧可能な、公的機関の個人情報を集約したサイトです。
まずは「Tola」のスペルで検索すると、2000件以上の人がヒット。
その中から、朝鮮戦争時に従軍していた可能性のある年齢の人、かつ父親の職業が郵便局員である人物を選出します。
これを考えられるスペルの候補で、すべてやっていくという気の遠くなる作業が始まりました。
草刈正雄さんファミリーヒストリー:日本の母方
同時に、日本では母方のルーツを探る調査も進められています。
スエ子さんの故郷は、福岡県行橋市。
古い戸籍を調べると、正雄さんの6代前と5代前の先祖は「草刈利久蔵」の名前を受け継いでいます。
4代前の長男が「松蔵」、次男が「勝蔵」だということがわかりました。
行橋市の幕末の資料にその、先祖の名前を見つけました。
藩が作成した地図に、利久蔵と松蔵の名前が書かれています。
草刈家は米や菜種を作り、地域経済を潤していたようです。
そして、曾祖父「高蔵」の代になると、農業の他に別の事業にも手を広げます。
ご近所の方によると、草刈家は、天ぷらかまぼこ製造業、小売店をされていました。高蔵の始めた、タラのすり身のかまぼこは近所でも評判だったそうです。
草刈正雄さんファミリーヒストリー:母スエ子さんのおいたちが明らかに!父の親族から手紙が!
ところが、草刈さんの曽祖父の高蔵さんは39歳の若さで急死します。
高蔵の次女、正雄さんにとっての祖母イシさんは、口減らしもあって17歳で嫁入り。
昭和7年、長女のスエ子さんが誕生します。
後の正雄さんの母です。
酒癖と女癖の悪い夫との生活は荒れ、スエ子さんが7歳のころ、両親は離婚します。
スエ子さんはそのまま、奉公に出されます。
それでも必死に働き、孤独に耐え続けました。
そして17歳のとき、努力が報われ、路線バスの車掌になることができました。
切符の販売、車内清掃などを行うこの職業は、当時の女性に人気でした。
スエ子さんは、苦労の末、ようやく安定した生活を手にすることができたのです。
一方、父方の取材は行き詰っていました。
「トーラ」で検索するも、それらしき人物は該当せず、「トーラー」に切り替えて検索してみることに。
該当件数、なんと1,836,864件!
気の遠くなる件数が追加対象となりました。
同時に、過去の草刈正雄さんのインタビューをさかのぼって調べてみると、「父の出身はノースカロライナ」と言及されているものを発見。
そこで、「ノースカロライナ州のロバート・トーラー」を対象に検索をかけてみます。
該当する人物たちに手紙を送り続けると、なんと1通の返信が送られてきました。
草刈正雄さんファミリーヒストリー:アメリカの親族が判明!
手紙の主は、ロバート・H・トーラーの甥と名乗る人物。
取材班はさっそく、その人物に会いに行きます。
出迎えてくれたのは、ジェイ・カラハムさん。
ジェイさんは、自分の母から日本にいとこがいると聞かされていました。
でも、そのいとこの情報は何もないと。
そこへ、取材班の手紙が来て、草刈正雄さんの写真をインターネットで調べたところ、ジェイさんの10代のころとそっくり!
いとこだと確信したといいます。
そこで、さっそく2人のDNA検査を実施しました。
結果は、97%の確率でいとこであることが判明。
初めて父方の親戚が見つかったのです。
ジェイさんの母親も喜んでいることこと。
ジェイさんは近所で暮らす母、ジャニタ・カラハムさん(97歳)のところへ案内してくれました。
父、ロバートさんの姉で、正雄さんの叔母にあたります。
ジャニタさんは、さっそくロバートさんの20代の頃の写真を見せてくれました。
正雄さんの若いころをほうふつとさせるハンサム!
やはりとても似ています。
初めて父の写真を見た、スタジオの草刈正雄さんは、胸がいっぱいで言葉に詰まっています。
自分でも「似ていますね」とのこと。
かっこいいですよね(^_-)-☆と笑顔を見せます。
草刈正雄さんファミリーヒストリー:父のおいたち
祖父の9人兄弟は全員、南北戦争で兵士に志願しました。
その中で唯一、軍人にならず郵便局員になったのが、祖父のゼブロン・トーラーさん。
貧しい子どもたちにお金をあげるなど、とても優しい人物だったそうです。
ところが50代でペラグラという病に侵され、痛みと絶望に耐え切れず、自らを銃で撃ち亡くなります。
その3か月後に生まれたのが、正雄さんの父、ロバート・トーラーさん。
ロバートさんが幼少期を過ごした家が残っていました。
ゼブロンさん亡き後、一家は困窮し、家の向かいにある学校の教師に部屋を貸すことで、家賃収入を得て暮らしていました。
ウエイターのアルバイトをして家計を助けていたロバート。
チャーミングでハンサムな彼は、女の子たちにモテモテだったそうです。
18歳で軍人になった彼は、福岡の築城基地に配属されました。
1950年に勃発した朝鮮戦争では、韓国の金浦空軍基地へ配軍されました。
父と同じように郵便物を運ぶ仕事に従事していたようです。
築城の町は、アメリカ兵を相手とするバーがずらっと並び、ホステスと恋仲になるアメリカ兵が多かったそうです。
ところが、ロバートさんとスエ子さんは、全く違うドラマティックな出会いをします。
草刈正雄さんファミリーヒストリー:父と母のドラマチックな出会いと別れ、正雄さん誕生
築城は、スエ子の担当する路線バスのちょうど経路上の休憩地。
この町で、1人しか通れない橋を譲り合ったことが出会いとなったそう。
とてもドラマチックですね。
ほどなく同棲を始める2人。
その後、ロバートは東京にある基地に配属され、スエ子さんもついていきます。
すでにお腹に2人の子どもがいたスエ子さんは、東京で新しい生活を思い描いていました。
ところが、2人は別々の人生を歩むことになったのです。
スエ子さんの地元、福岡県行橋市に、その後の消息を知る人物がいました。
綿井寛さん。綿井さんの姉が、スエ子さんの同級生でした。
地元に戻ってきたスエ子さんと、たまたま会った綿井さんの姉は、思いつめた様子のスエ子さんを家にあげ、行くところがないという彼女を2階に住まわせてあげました。
そして、スエ子さんはそのままそこで、家族にも内緒で正雄さんを出産しました。
一方、父ロバートは、将校になる幹部候補学校へ行くことになり、陸軍に編入するため、アメリカへ帰国しました。
姉のジャニタさんによると、彼は日本での出来事を誰にも話をすることができず、神経衰弱に陥りました。
そのままロバートさんは姉の勧めで、西ドイツの陸軍へ行くことになりました。
草刈正雄さんファミリーヒストリー:母と子ふたりの生活苦から芸能界へ
スエ子さんは、アメリカのロバートさんに向けて手紙を書きましたが、受け取ったのはロバートの母と姉。
ただ、生活に困窮していたトーラー家には、どうすることもできませんでした。
スエ子さんに返事を書いたのは、姉のマーガレットさん。
僅かなお金と、状況を書いた手紙を同封しました。
その手紙で、すべてを悟ったスエ子さんは、正雄さんと2人で生きていくことを決意します。
まだ、外国人に対する偏見も強かった時代。
スエ子さんは、しがらみのない小倉へ移動します。
正雄さんが幼少期を過ごした小倉。
スエ子さんは慣れない町で、朝から晩まで働いていました。
大家の長男の山本徹さんによると、スエ子さんは正雄さんが周囲の偏見にさらされないように、身だしなみに気を使っていたと言います。
しつけもかなり厳しかったようです。
正雄さんが道に外れないように、必死に育てていた様子が感じられます。
中学卒業後は、本の訪問販売やスナックなどで稼ぎ、定時制高校の学費を稼ぎました。
17歳のとき、モデルクラブの目に留まり、業界に飛び込みます。
その当時の初任給が1万数千円、モデルクラブは5万円くれるという、お金目当てでしたと草刈さん。
それはそうですとも!
草刈正雄さんファミリーヒストリー:芸能界での成功と父母のその後
草刈正雄さんは、日本人離れした顔立ちと、美しいスタイル、爽やかな魅力で、あっという間にモデルや俳優として活躍していきます。
そんな正雄さんの様子を見て、スエ子さんも少しずつ父親のことを話すようになりました。
けして、父のことを悪く言わず、いつでも尊敬している様子は、正雄さんをほっとさせたそうです。
そんなスエ子さんは2010年に脳梗塞で亡くなりました。
息子のために生き、息子に救われた人生でした。
1953年、アメリカ陸軍として西ドイツに渡ったロバートさん。
その後、結婚して除隊し、商売を始めました。
婦人服を販売する会社を立ち上げ、7店舗を開店。
しばらく上手くいっていたのですが、最後は手を広げすぎて失敗したそうです。
その後、2013年に癌のため亡くなりました。
最後まで、日本での出来事を口にすることはありませんでした。
草刈正雄さんファミリーヒストリー:伯母からの手紙と草刈正雄さんの決断
伯母のジャニタさんが、正雄さんに向けて手紙を書いてくれました。
日本の甥を気遣っていたこと、消息が知れてとてもうれしいこと、親戚の写真を飾った壁に、正雄さんの家族も加えたいこと、などが語られていました。
そして、会いに来てほしいと締めくくられていました。
正雄さんは、その後大きな決断をします。
アメリカの親戚に会いに行くことにしたのです。
父が母と自分を残して、日本を去ったことに対するしこりが消えたわけではなく、とても悩んだそうですが、ジャニタさんの手紙には心を動かすものがあったとのこと。
ジャニタさんと、ジェイさんに会った草刈正雄さんは、とても感激されていました。
長い長い年月の末、ついに会えた父方の親戚。
複雑な思いはもちろんあるのでしょうが、会えてすごくよかったなと思いました。
とても感動的な回でした!