柔道家 阿部一二三・詩 兄妹 ファミリーヒストリーあらすじと結末「ポジティブ思考や身体能力は先祖譲り!?」あべひふみ・うた

今回は、「ファミリーヒストリー 柔道家 阿部一二三・詩 ポジティブ思考や身体能力は先祖譲り!?」をご紹介します。

パリオリンピック大会で東京に続き連続金メダルをねらう阿部一二三(あべひふみ)、詩(あべうた)さん兄妹のファミリーヒストリーです。

家族の歴史に興味があった詩さんが、兄に一緒に出演しようと声をかけて実現しました。

先祖に強い人がいたらうれしいという一二三さん、妹の詩さんは、人のために活躍した先祖がいたらいいと思っているそうです。

それでは、さっそくみていきましょう。





柔道家 阿部一二三・詩さんファミリーヒストリー:チーム阿部

7月28日パリ五輪の柔道の試合での出来事。

女子52キロ級の詩さんは、惜しくも2回戦で世界ランク1位のディヨラ・ケルディヨロワ(ウズベキスタン)に一本負けしてしまい、号泣する姿が大きな話題に。

その後、観客席でおにぎりをほおばりながら、家族とともにお兄さんを応援する姿が映し出られほっと安心。「チーム阿部」とも言われる仲の良い家族の様子も伝わってきました。

応援の甲斐あって、男子66キロ級に出場した兄の阿部一二三さんは、東京五輪に続いての連覇を果たしました。

この強い兄妹、どのようにして生まれたのでしょう??番組詳細は以下に。

パリ五輪で2大会連続金メダルをねらう柔道家・阿部一二三、阿部詩の強さの秘密が明かされる。両親が「我が子がルーツを知りたいなら」と取材に協力。父方を辿ると、忍耐強さと気骨を持ち合わせた先祖の姿が浮かびあがる。曽祖父は、戦前には神戸でテーラーとして開業。厳しい競争の中、店を繁盛させていたことが判明する。負けん気の強さは祖父から父へ、そして一二三と詩へ。父は競泳で国体出場を果たしていた。母方のルーツは奄美大島。日本でも最高峰の絹織物の一つ「大島紬」を生産し、一族には相撲の強者もいた。祖父は、ラグビーや野球で活躍。ポジティブで切りかえの早いところは、一二三や詩も似ているという。父は小学1年生から一二三と二人三脚でトレーニングをし、母はピンチの時にすぐに駆けつけた。家族の支えが2人の何よりの力で、五輪にも“チーム阿部”で挑むのだという。番組では随所で、一二三と詩が子供の頃の秘蔵映像を紹介。録音された両親の声から我が子へのまなざしが伝わる。終盤では、父が秘めた思いを告白。二人は涙を浮かべ、パリ五輪への決意を新たにする。

出典:番組公式ページ





柔道家 阿部一二三・詩さんファミリーヒストリー: 父方のルーツ ルーツは徳島に

阿部兄妹は、神戸市兵庫区の出身です。

父・浩二さんは、神戸市で消防士として勤務しています。

今までTV取材を断り続けてきた浩二さんでしたが、詩さんの自分たちのルーツが知りたいという思いから取材に応じてくださいました。

阿部家のルーツを聞いてみました。

徳島の出身だとは聞いているのですが、それ以外は知らない、とのことです。

戸籍から徳島県神山町(旧神領村)の4代前、高祖父・小平とあります。

小平には、子どもがおらず、大正12年に13歳の金原敏一を養子にむかえます。

敏一の生家は、百姓や林業をしていたそうです。

神山町(旧神領町)について、町の歴史に詳しい方に聞くと、明治政府の地租改正をきっかけに立ち上がる気質や気骨があったようで、農村一揆もしばしば起こった地域でした。

敏一は、豊かな生活を夢見てテーラーを目指し、神戸へと移り住みました。

神戸は、居留地として栄え、外国文化がいち早く受け入れられ、洋服づくりの技術が発展していました。

敏一は、厳しい徒弟制度を乗り越え技量を身につけ26歳に独立、「阿部洋服店」を開業しました。

昭和11年の電話帳にものっています。

阿部洋服店を知る人は、仕立てがよく繁盛していたと話してくださいました。




柔道家 阿部一二三・詩さんファミリーヒストリー:父方 祖父・稔

昭和11年、祖父・稔が誕生します。

稔は、5歳の時、友達と遊んでいて竹の棒が右目に刺さり失明をしてしまいます。

しかし、負けず嫌いな性格もあり、何事も他の人と同じようにしたかったそうで、勉学にもはげみ神戸商科大学へ入学。

卒業後は、会計事務所で働きます。

安定した職について昭和40年に結婚。

昭和45年には、次男・浩二が誕生します。一二三、詩の父です。ある時、稔は、脱サラをしてテイクアウトの天ぷら店を開きます。

地域や商店街の活性化にも協力しました。

稔さんを知る人は、気骨があり前向きな人だったといいます。稔さんは、現在87歳、インタビューを通しても前向きな人柄が伝わります。

小学校へ入ると、浩二は、兄の初郎とともに水泳教室へ通います。

身体能力が高く全国ジュニアオリンピックに出場します。しかし、中学、高校と記録が伸び悩みます。

浩二さんは、身長が伸びなかったのが原因だったと語ります。

高校卒業後、職を転々とした浩二でしたが、身体を動かすことを仕事にと考えます。神戸市消防職員の採用試験を受け合格!

平成5年、23歳で消防士となりました。





柔道家 阿部一二三・詩さんファミリーヒストリー: 母方のルーツは奄美大島

母、愛さんは、旧姓・谷村愛。祖父が奄美大島の出身です。

愛も浩二と同じく、詳しく知らないそうです。

谷村家は、鹿児島県戸口村(龍郷村)で暮らしていましたようです。

現在は、戸口集落に谷村姓は住んでおらず、8キロ離れた奄美大島名瀬(なぜ)で、親族が見つかりました。

5代前の先祖が同じ谷村昌平さんに阿部兄妹のことを伝えたら、信じられないと話します。昌平さんの父が作った家系図を見せてくれました。

6代前の先祖、薩摩藩士の谷村谷嶺は、西郷隆盛のイノシシ狩りを案内したとあります。

歴史好きの詩さんは、大感激です。

谷嶺は、奄美大島を薩摩藩が直轄領にしたとき来た役人で、現地の妻と結婚、龍郷町に土着したと考えられます。

谷村家は、どんな暮らしをしていたのでしょうか。

かつて谷村家は、大島紬を生産していたそうです。大島紬の「庸実柄(ようざねがら)」は、昇庸実(のぼりようざね)が考案したものです。

(大島紬についてはこちらもご覧くださいね)

美の壺 「奄美大島 大島紬(つむぎ) 」<File254 >番組紹介のお店や場所はドコ?出演者情報もお見逃しなく!NHK美の壺

昇庸実の姉ミチカナが、5代前の先祖、谷村安良に嫁ぎ、庸実の研究心が谷村家に引き継がれました。

谷村家は、大島紬柄のひとつ「戸口西郷柄」を生み出したと考えられています。

研究心は柔道にも通じるところがあり、そんなDNAも阿部兄妹に受け継がれたようです。





柔道家 阿部一二三・詩さんファミリーヒストリー: 谷村家 曽祖父・榮

曽祖父・谷ニは、次男だったため家は継がず、大阪へ出て大工の仕事につきました。祖父・榮は、四男として生まれました。

榮は、スポーツ万能で小学校から野球を始めます。プロ野球選手を目指し、浪商高校へ入学と同時に野球部へ入部します。

しかし、新入部員が、数百人もいる強豪校では練習することもできない状況でした。

それならとラグビー部へ入部、大阪ベスト4に貢献しました。切り替えが早くチャレンジ精神が旺盛な面があったようです。

高校卒業後、姉を頼り東京へ上京します。友人に誘われてドライブに出かけ、祖母・瀬端香(せばた かおる)と運命の出会いをします。

昭和44年に榮は、香と結婚。大阪で新生活を送り、昭和47年、母・愛が誕生します。

榮は、28歳の時に「高速産業」という運送会社を立ち上げました。

香は、榮についていくのは大変でしたが、全力でささえます。チャレンジ精神旺盛で前向きな行動力が、取引先を拡大して会社を大きくしました。

しかし、50年代の第2次オイルショックを契機に運送業は廃業。喫茶店経営を経て谷村製作所を立ち上げました。

榮は、よく働く働き、いつも香を頼りました。迷わず突っ走れたのは、香のおかげだったと生前、榮さんは語っていました。




柔道家 阿部一二三・詩さんファミリーヒストリー:父母の出会いと阪神淡路大震災

榮の次女・愛は、父のスポーツ万能を受け継ぎました。

高校卒業後、スポーツ専門校へ進学、卒業後は、フィットネスクラブのインストラクターとして就職をしました。

愛は、仕事終わりに友人と出かけ大阪の街へ。そこで、消防学校生の浩二と運命の出会いをします。

愛さんは、浩二をかっこいい人だと、ひとめぼれ状態だったそうです。

浩二さんもかわいい子だと思い、必死になって家族のいる自宅へ電話をして交際がはじまりました。

ワタクシらら子も思いだします。この頃はまだ携帯電話はそれほど普及していなくて、多くの若者が家に電話をしてましたよね~(遠い目)

1年半ほどたったある日の朝、阪神淡路大震災が発生します。

阿部家のあった笠松商店街からも出火。家族は無事でしたが自宅は全焼、鎮火に8時間を要しました。

消防士の浩二は、不眠不休で対応にあたり、大阪在住の愛と再会したのは震災から1か月ほどたっていました。

震災で殺伐とした状況でも、浩二はいつもムービーメーカーだったそうです。

震災から4か月後、浩二と愛は結婚します。浩二25歳、愛23歳でした。

平成9年、次男・一二三が誕生、平成12年、長女・詩が誕生します。

浩二は、同じころ、消防救助技術大会の水中結索リレーのメンバーに選ばれます。体幹トレーニングに力を入れると泳ぎも向上、31歳にして初めて国体に出場します。

高校時代に挫折した競泳にリベンジを果たしました。

ワタクシらら子、水中結索リレーって初めて知りました。水中でも落ち着いてこれらの作業ができることが、人命救助には大事なんですね。




柔道家 阿部一二三・詩さんファミリーヒストリー: 一二三、詩 柔道の道へ

一二三は、やんちゃな少年でした。パワーがありあまっているようで、「何かさせた方がいい」といわれ、5歳のとき地元の少年柔道クラブに入りました。

浩二は、身長差があると不利と感じたようで、「体重別のある種目があった方がいい」と思ったそうです。

身体の大きい子に負けると泣いていた一二三をみて、浩二は一緒にトレーニングをするようになりました。メディシンボール投げで体幹をきたえました。

一二三さんも今の自分があるのは、トレーニングのおかげだったと話します。

また、当時の柔道クラブの監督さんは声掛けも前向きで、「次、がんばろう!」と思わせる気持ちをもちあげるの上手だったそうです。

そんな姿をみて、詩さんも同じく5歳から柔道を始めました。

練習の成果もあり、一二三は、しだいと大きな相手にも勝つことができるようになってきました。

技術をみがき、中学2年のとき全国柔道大会で優勝。

続いて妹・詩も中学3年のとき、全国中学校柔道大会で優勝します。

父とのトレーニングの賜物ですね。続けられる一二三や詩の精神力も素晴らしいとワタクシも思います。




柔道家 阿部一二三・詩さんファミリーヒストリー:夢のオリンピックへ

一二三の中高時代の柔道監督は、一二三の持ち味は、体幹のすごさやスピード感、バランスの良さだと話します。

高校卒業後、一二三は、日本体育大学へ進学。一本勝ちをねらう豪快な柔道で世界選手権連覇。

詩も高校3年生で世界選手権初出場。すべて1本勝ちで世界一となり、兄に並びました。

詩の中高時代の指導者は、阿部兄妹の強さの根底には、「家族」があるといいます。

父ゆずりのポジティブさと母と同じ優しさ、家族全員で前に進んでいける雰囲気をつくりだしているのだそうです。

詩も日本体育大学へ進学しますが、ホームシックにかかります。母は、自宅の喫茶店をしめて詩のサポートをするため東京で一緒に暮らしはじめました。

安らぎの場を得た詩は回復し、東京オリンピックへ兄とともに出場します。

父・浩二は、何もできないからと、日々、自らにランニングを課し、エールを送ります。素敵なお父さまですね。ワタクシこういう話に弱いのです。

運命の日、コロナ禍で無観客試合となりました。試合前、母・愛は、「一緒に戦っているよ!」とメッセージカードを届けました。

家族みんなが、同じ方向を向いてなんて素敵なご家族なんでしょう。

ふたりの兄、勇次朗さんも事あるごとにサポートをしています。

家族一丸となって勝ち取った2個の金メダル、阿部家のがんばりに勝利の女神が微笑みました。




柔道家 阿部一二三・詩さんファミリーヒストリー: いざパリへ…

母のルーツの奄美大島には相撲土俵が多くあります。

地区対抗の相撲大会も積極的にされているようで、大正9年から昭和のはじめまで大島すもう協会主催の大会がありました。

谷村家の系図を紹介してくださった谷村昌平さん。昌平さんの祖父で、一二三と詩の4代前の高祖父の弟の谷村昌信は、大島すもう協会の中で大関にまでのぼった人物だったそうです。

投げっぷりがよくてスカッとする相撲をとったそうです。まるで柔道で相手を倒す一二三さんや詩さんのようですね。

祖父の榮さんも相撲が強かったそうです。榮さんは75歳で亡くなりますが、晩年、金メダルという最高の贈り物を孫からもらいました。

一二三と詩の出身の神戸市立和田岬小学校では、東京オリンピックでのぼった表彰台があります。

パリオリンピックで偉業にいどむ兄妹を、父はランニングで今日もエールをおくります。

今回の番組に出演して、一二三さんは、「すべてプラスになれた気がする」と語り、詩さんは、「ファミリーの歴史を大切にしながら、築いた絆を大切にパリでがんばりたい」と誓いました。

阿部一二三、詩兄妹のファミリーは、深い愛につつまれていました。

なかなかこんなご家族はいないですよね~。羨ましいと思うワタクシらら子でございました。