今回は、「ファミリーヒストリー 俳優・要潤 “遠大な夢”を追った家族たち」をご紹介します。
仮面ライダーG3でデビュー、NHK連続ドラマ「らんまん」では、時として傲慢な田辺教授を好演しました。俳優生活23年、初めて街角で「教授!」と声をかけられたそうです。
本番でも自然体の要潤さん、ご両親に対しては、てれくさいけど感謝していると素敵なコメントです。
【要潤 出演情報】
今夜 午後7:57〜午後8:42 NHK総合にて放送
「ファミリーヒストリー
俳優・要潤〜“遠大な夢”を追った家族たち〜」 予告はこちら↓↓https://t.co/7Zcd62VcAA要潤のルーツをご覧ください。お見逃しなく!#要潤#ファミリーヒストリー#NHK pic.twitter.com/u6GTfwJOyF
— PLAN-D (@PLAN____D) March 13, 2024
目次
要潤さんファミリーヒストリー:放送概要
初回放送日: 2024年3月13日
連続テレビ小説「らんまん」の教授役が話題となった要潤。父方は代々「遠大な夢」を抱いてきた。曽祖父は約1万年前の石器を発掘。祖父は激戦地で村人から牛乳をもらって救われ、酪農家に。父はプロゴルファーを目指した。祖父と父は2代続けて母を早くに亡くし父子家庭で育つ。当時の心情を初めて知り潤は…。母方は包容力を受け継ぐ。28年前に1か月要家にホームステイした女性が潤の母を忘れられず米国から訪ねてくるほどだ。
NHK公式サイトより掲載
お父様は、自身の生い立ちや祖父母について、あまり話さなかったそうです。潤さんは、今なら受け止めれると思っています。さあ、どんなヒストリーなのでしょう。
収録当日は、家族のわからない部分が知れてドキドキと不安混じりだそうです。さっそくみていきましょう。
要潤さんファミリーヒストリー 父方のルーツ 曽祖父・萬二 石収集に奔走
要潤さんは、ふるさと香川県の顔としても活躍中です。まずは、父のルーツをたどるため実家のある香川県三豊(みとよ)市へ、父・由起男さん、母・多喜代さんが迎えてくれました。
父も姓やルーツについて聞いたことはなく、母も珍しい姓だと思っていたそうです。江戸後期、先祖の戸籍は、綾歌郡松山村(現:坂出市)です。
遠縁の方の情報によると、もともとは、岡山の出身だと聞いたことがあるそうです。調査は、県内外70軒の要家におよびました。
瀬戸内海に面した高松城は、ぜい弱な土地に石垣を積むため、腕のいい石工が必要でした。要家の先祖は、高松城の石垣をつくるために岡山からやってきたのだと考えられます。
「要」という姓は、住んだ場所が高松から丸亀方面への街道の要所だったところから由来しているそうです。父方の曽祖父・萬二は、農業のかたわら石を集めるのに情熱を燃やしました。
大正8年、萬二は、28歳の時、妻・イトエと結婚、翌年に潤の祖父、長男・博が誕生しました。
しかし、博が4歳の時、イトエは結核で他界、萬二は、男手ひとつで子ども二人を養いながら石探しをすることをあきらめませんでした。
萬二が発見した石器が博物館にあります。およそ1万年前、旧石器時代のものです。城山(きやま)という場所で見つかりました。
城山の石器は有名で、研究のきっかけとなった発見になりました。
要潤さんファミリーヒストリー 父方 祖父・博 戦争で救ってくれた牛乳との出会い
成長した祖父・博は、自立心が強くたくましい成年に成長しました。昭和15年、20歳のときに山砲兵として中国へ出征します。
当時のエピソードとして、大砲が使えないのに使えると申し出、上官に怒られながらできるまで教わったそうです。
昭和19年にインパール作戦、翌年、イワラジ会戦で戦い、多くの友が亡くなりました。生きるか死ぬかの戦いです。
博もマラリアにかかり生死をさまよいました。その時、現地のビルマの人にわけてもらったのが1杯の牛乳でした。牛乳を飲ませてもらうと快方に向かいました。
昭和22年、6年ぶりに故郷に戻ることができました。帰還した博は、小原キヌコと結婚、牛を飼い酪農を始めました。
酪農の経験はなく試行錯誤の挑戦でしたが、戦後まもない栄養不足の日本でお腹の減った子どもたちに自分を救ってくれた牛乳を飲ませたいという思いから酪農をはじめました。
博の長男で潤の伯父・吉則さんは、みんなで頑張ろうという思いが、博の心を動かし、なんでもやればできるというチャレンジ精神が旺盛な人だったと語って下さいました。
潤さんも祖父・博さんには、会ったことはありませんでしたが、なぜ、牛を飼っているのだろうと思っていたそうです。ひとつ謎がとけました。
要潤さんファミリーヒストリー 父方 祖父・博と祖母・キヌコの夢
博とキヌコの間に長男・吉則が誕生すると、昭和26年11月には、潤の父、次男・由起男が誕生します。
由起男さんは、子どもの頃、母に似ていると言われたことがありましたが、幼い頃に母を亡くしているため、なかなか実感がわかなかったそうです。
どんな人物だったのでしょうか。祖母・小原キヌコは昭和3年2月に誕生しました。キヌコの母、曽祖母のアキエは裕福な商家の娘でしたが、戸籍にキヌコの父の名はありません。
結婚は許されなかった内縁の夫でした。内縁の夫、キヌコの父・又三郎は、大酒のみで遊び人だったそうで小原家の財産を散財して64歳の時に病気で亡くなりました。
キヌコには、兄と姉、弟がいましたが、奉公や養子に出され一家離散、アキエの元に残されたのがキヌコ一人でした。その後、キヌコは、要家のもとへ嫁ぎ博と結婚したのでした。
キヌコは、金策をして牛を飼い、牛乳の生産量を増やし、山を買いみかん畑を切りひらき夫と同じ夢を追いました。
結婚後のキヌコは、少女時代と比べ、明るく前向きで働きものだったそうです。しかし、結婚から7年、キヌコは、池の上のみかん畑から足をすべらせ水難事故で亡くなります。
博が、幼い頃に母を亡くしたのと同じように息子たち2人も幼く母を亡くしました。吉則6歳、由起男2歳のときでした。
要潤さんファミリーヒストリー 父・由起男「遠大な夢」をみつけて
今回の取材で祖父・博の日記が見つかりました。キヌコが亡くなってから書き始めたようで、当時の思いが綴られていました。
さみしさや子育てのむつかしさ、こどもの日にごちそうを作ったことなど、母がいないさみしさを知っている博は、精一杯、子どもたちに向き合った日々が記されていました。
吉則さんは、苦労して生活の基盤をつくったもらったことに感謝、父のいろんな思いが日記を見て初めて理解できたと語ります。
博は、子育てや家事に苦労しながらも牛の数を増やし、みかん畑を広げ自分の夢を追いました。
牛乳をもっとたくさん作って、給食に牛乳を提供して子どもを健康にしたいと自分で目標をかかげ挑戦していきます。
博が牛の話をするときは、牛の目のようなやさしいまなざしをしていたそうです。成長した由起男は、工業高校へ進学、野球に情熱を燃やしました。
卒業後、大阪のエレベーター補修会社へ就職しましたが、ある日、父がよく言っていた「遠大な夢を持て」という言葉が、よみがえります。
博が綴った日記のごとく、由起男は自分自身に「オマエの夢は何だ」と問いかけ綴ります。
由起男はある日、プロ野球選手からプロゴルファーへ転身した尾崎将司さんの活躍をみて衝撃を受けます。
プロゴルファーを目指し帰郷、香川のゴルフ場へ就職します。
要潤さんファミリーヒストリー 母方 多喜代の人柄を育むルーツ
潤の母・多喜代さんは、25年間、行儀作法の指導を続けています。常に50人ほどの生徒さんがいるそうです。
28年前にたった1か月、要家にホームステイをしていたデボラ・リュウさんは、多喜代さんを母のように慕い、たびたび、日本に訪れます。
母の人柄は、どのようにして育まれてきたのでしょうか。
母方のヒストリーをみていきます。多喜代さんは、香川県三豊市出身です。生家を多喜代さんの弟・浦川薫さんに案内していただきました。
潤の祖父、多喜代の父・信一は、浚渫船(しゅんせつせん)の船長をして1年の半分以上、日本各地を飛び回っていました。
多喜代の母・伊津緒(いつお)は、夫や家族の世話、農作物の世話など、働きづめの日々でした。
けれど笑顔を絶やすことのない優しい人でした。常日頃、人への気遣いをきちんとしなさいと言っていたそうです。
そんな伊津緒の包容力は、多喜代に受け継がれました。
多喜代の中高時代の友人たちによると、多喜代は、背が高くボーイッシュで短距離走が得意なお姉さん的存在だったそうです。
デボラさんも、多喜代は本当の家族のように愛情深い人だと話します。
子ども時代の潤についても覚えていて、母のようにやさしい子だったと当時の思い出を語ってくださいました。
要潤さんファミリーヒストリー 由起男と多喜代の結婚
多喜代は、高校卒業後、地元のゴルフ場へ就職します。
潤の父・由起男さんに出会い、昭和52年10月に結婚します。多喜代と結婚した由起男の生活は一変しました。
男所帯では、なかなか食べたことのないあたたかい手料理が食卓にはあふれていました。長男・悠葵の誕生に続き、昭和56年2月には、次男・潤が誕生します。
由起男は、30歳の時にゴルフ場の支配人を任されるとプロゴルファーになることをあきらめ、父親として家族を守ること新たな夢へと変化していきました。
職場は、90年代初頭に起こったバブルの崩壊でゴルフ場の倒産が相次ぎ業績は悪化、人件費の削減など支配人として悩まされることもありました。
しかし、仕事から帰ると多喜代の心あたたまる食事やたわいもない会話が、由起男を違う環境においてくれました。
長男の悠葵さんも母、多喜代は、思春期の頃でもなんでも話せる存在で答えを導き出してくれる要家のムードメーカー的な存在で、良好な家庭関係が築き上げられました。
潤は中学時代から始めた陸上競技に熱中、ハードルが得意で高校でも記録を伸ばします。
中学時代の顧問・本田恵さんは、2ヶ月足らずで走り幅跳びの記録が1メートル以上伸びオリンピックも夢ではない状況にいました。
要潤さんファミリーヒストリー 遠大な夢を求めて
平成10年6月、高校3年の潤は、四国インターハイに出場します。
しかし、400メートルハードルの8台目で転倒、棄権となり大きな夢が閉ざされてしまいました。
生きてきた中でこんなに辛いことはなかったそうです。
そんな時、陸上がダメなら俳優だと思いました。両親に夢を伝え高校の翌日に上京。
多喜代さんからは、1ヶ月は生活費を出すがそれ以降は自分でしなさい伝えられ、アルバイトをかけもちしてオーディションを受け続けました。
上京から2年後、オーディションでライダー役に抜擢、その後は私たちがよく知る通りです。
要潤さんは、自身のファミリーヒストリーを見て、親となった今、知ることができてよかったそうです。
自分のチャレンジ精神は、どこからきたのかと思っていましたが、先祖から脈々と受け継いだ魂なのだと感じたそうです。
潤さんの父と母は、毎月、必ず祖父母が眠る墓へ訪れます。要家が、代々守られてきていることに感謝の気持ちを捧げます。
戦地で牛乳に助けられはじめた酪農は、生産量を増やし学校給食に取り入れられ、博の夢がかないました。
現在、72歳の由起男さんは、アマチュアゴルフの選手権を目指しています。
要潤さんの今の夢は、海外で認められる俳優になることだそうです。遠大な夢は、脈々と引き継がれていきます。