高嶋政宏さんファミリーヒストリー あらすじと結末「~髙嶋ファミリー400年以上の秘話満載〜」

今回は、「ファミリーヒストリー 髙嶋政宏〜髙嶋ファミリー400年以上の秘話満載〜
」をご紹介します。

高嶋一族を代表して登場した政宏さん、どんなお話が聞けるのでしょうか。さっそくみていきましょう。





高嶋政宏さんファミリーヒストリー

今回は、家族全員が俳優という高嶋政宏さんがゲストです。

父は往年の二枚目俳優で、日本ミュージカル俳優の草分けでもある高島忠夫さん。母は元・宝塚歌劇団男役でトップスターだった、大女優の寿美花代(すみ・はなよ)さんです。弟・政伸さんも人気俳優。

しかし、父方の祖父は、定職をもたないプレイボーイだったそう。

今回は、弟・政伸さん、いとこでヴァイオリニストのちさ子さんのインタビューも交えての黄金回です。

番組詳細はこちらです。

家族4人が俳優「髙嶋ファミリー」の歴史を辿る。弟・政伸、いとこの高嶋ちさ子も登場し、父方ルーツを語る。明治の先祖は神戸で広い土地を所有した名士。しかし祖父は定職に就かず、生涯音楽を愛して自由に生きる。音楽の才はちさ子に受け継がれたのだという。母・寿美花代の結婚前の本名は松平節子。調べると先祖が徳川家康の異父兄弟だと分かる。父・忠夫のデビューはある「勘違い」から…など秘話満載。忠夫の病を支えた家族。





高嶋政宏さんファミリーヒストリー:父方のルーツ 高嶋家

政宏さんの父・忠男さんの出身、神戸市東灘区御影から調査が始まります。神戸市御影に住み、高祖父・茂十郎は、御影町の町議員をつとめた地元の名士でした。

曽祖父の茂一(もいち)は、荒物、金物の商売を営んでいました。商売以外にも、学問好きで近所の子どもを集めて塾を開いたりもしていました。

茂十郎から多くの土地を受け継ぎ、阪神御影駅から国道2号のあたりまで、広大な範囲の土地を所有していた大地主でした。

御影駅から自宅まで、敷地に足を踏み入れることがなかったそうです。しかし、茂一の息子である信夫は、少し違った人物のようです。

なんと、定職につかない遊び人だったそう。

楽器の琵琶に熱中し「高嶋哮水(こうすい)」の名で琵琶の演奏会に出演、品のある演奏をする弾き手でした。

高嶋ちさ子さんも信夫について、父で音楽プロデューサーの弘之さんから聞かされていたそうです。フラフラしていたが、ちさ子さんは音楽の才能を受け継いだのだと。

なるほど。これにはワタクシらら子も納得です。

信夫は、大きな土地を少しずつ売ってお金にして「売り食い」で暮らしていたそうです。

日中戦争にも召集されていましたが、38歳で衛生伍長と、決して昇進も早い方ではなかったよう。

実際には戦地に赴いておらず、専門家の見解からは、陸軍の性に合っていない人物だったようです。

音楽を楽しみ、時代に流されることのない自由人の長男として昭和5年に誕生したのが政宏さんの父・忠男さんでした。





高嶋政宏さんファミリーヒストリー:父方のルーツ 齋藤家 祖母・はる

信夫を支えた祖母・はるの齋藤家をみていきます。

はるを知る人からは、シャキッとした男前な気質だと聞きます。政宏さんによると、齋藤家の子孫にサンペイ汁の考案者がいると聞いたことがあります。

5代前の祖先・齋藤三平は、江戸末期、北海道北斗市茂辺地で村人のため窯業製品の開発に尽力をつくした人物です。

ともに働く村人に栄養のある食事、タラや鮭、野菜が入った北海道の郷土料理、サンペイ汁をふるまったという話があるそうです。

その関連性を地元の学芸員にたずねたところ、齋藤三平がいた頃には、すでにサンペイ汁は存在していたそうです。

後世の人にとって、インパクトのある「サンペイ」といえば茂辺地の齋藤三平さんを思い起こすほど、地元では大変立派な存在だったようです。

その息子・實尭(さねたか)は、英語の勉強にはげみ、土石を原料とする化学工業の原書に興味を持ちます。

三平が亡くなると、實尭は明治政府の土木部門で働きました。

愛知県田原市は、明治15年から平成半ばまでセメント事業を行っていました。

その礎を築いたのが齋藤實尭でした。当時の働き手は田原藩士。経営や技術について知らなかった人々をまとめ、田原の産業の基盤をささえました。

このほかにも妻とともに女性英語塾「芳英女塾」を、日本人として初めて設立をしました。

政宏さんは、このように偉大な人物だったことを知らされていなかったので、おどろきです。




高嶋政宏さんファミリーヒストリー:父・忠夫の青春時代

忠夫が小学生の頃から、信夫は土地を切り売りするようになりました。

旧制神戸一中(県立神戸高校)では、水泳部に所属、戦争時代には勤労奉仕や軍事工場で働いたこともありました。

昭和20年、神戸が空襲をうけ、御影も被災、住んでいる家も全焼しました。

終戦後、焼け野原の日本でしたが、忠夫は、前を向く明るさをもっていました。

音楽に夢中な青年で、母から米と着物をひきかえにギターを購入してもらいバンドを結成します。

しかし、生徒を集め演奏活動をしたことを教師に叱責され、退学になってしまいます。1年後、関西学院大学付属高校へ編入、大学へ進学しました。

忠夫は、昭和26年新東宝スタートレット(ニューフェイス)1期生に合格、上京して映画俳優となります。

後日談ですが、俳優になったきっかけは、神戸元町のぜんざい屋さんのお店の方に「男前ね。あなた、俳優になれるよ!」と声をかけられたこと。

すっかり、その気になってオーディションを受けたそうです。

しかし…、いろんな青年におなじように声を掛けたのだとか…、いえいえ、6000人応募の中19人の合格、内男性は4人のみです。

明るさと歌が持ち味、関西のお坊ちゃま育ちの忠夫は、スタッフから「ボン」と呼ばれるようになりました。

昭和30年代には、舞台俳優としても活躍。昭和35年、忠夫は宝塚歌劇を観劇、寿美花代さんと運命の出会いをします。




高嶋政宏さんファミリーヒストリー:母方のルーツ 松平家

政宏の母・寿美花代は、現在92歳、静かな日々を送っています。

旧姓の本名は、松平節子。松平という姓からも、高嶋政伸さんは、徳川家康とのつながりがあると思っています。

寿美さんは、自身のルーツについて、出演したTV番組で「旗本」だったと語っています。

徳川家康とどんなか関わりがあるのか探っていきます。

寿美さんの曽祖父・莞爾(かんじ)について、旗本系譜をたどると松平信濃守とあります。

15代将軍 徳川慶喜の護衛を任されていました。

さらに松平信濃守をたどると、松平伝右衛門勝秀(久松)という人物にいきあたります。別の資料で松平伝右衛門勝秀の先祖にたどることができました。

安土桃山時代の先祖、勝俊は、家康の異父の兄弟とあります。

家康の生母、伝通院は、家康を生むと離縁。

その後、久松家に嫁ぎ、生まれた男子が、松平姓を名乗ったとあります。

時代が江戸から明治になり、松平莞爾は、明治政府の命を受けて静岡県牧之原台地へ移りました。

荒れ地を開墾して茶畑をつくりますが、明治4年、政府からの給金が一方的に打ち切られてしまいます。

困窮をきたした末、莞爾は東京に戻りました。




高嶋政宏さんファミリーヒストリー:母・節子 寿美花代誕生

時代に翻弄された莞爾のよりどころが剣術でした。

山岡鉄舟の十傑のひとりで、「一刀正伝無刀流」を開いた時の門人に名を連ねています。剣術を通して、自身を保っていたのかも知れません。

莞爾は、明治18年、42歳の時に宮内庁へ出仕。皇室事務の仕事に就き、明治29年、政宏の祖父で五男の八郎が誕生します。

八郎は、銀行家の娘・大坪つゆと結婚して西宮に居を構えます。

温厚でチャレンジ精神旺盛な父と明るい母にのもと、昭和7年、節子(寿美花代さん)が生まれます。

太平洋戦争が激化、母と節子ら子どもたちは、姉が嫁いだ岐阜県下呂市慈雲寺へ疎開します。当時の節子に出会った時の印象は、おとなしく控えめな美しい少女だったそうです。

兄の弘は海軍へ学徒動員、戦死の報告を受けます。遺骨も戻りませんでした。母・つゆは、悲嘆にくれます。絶対に生きているからと、葬式をするのを拒んだそうです。

昭和22年、芦屋の女学生だった16歳の節子は宝塚歌劇団に入団、芸名を寿美花代としました。

節子は、戦後間もない混乱期の芸能界に入ったのです。




高嶋政宏さんファミリーヒストリー:忠夫、節子の結婚生活そして…

戦後間もない混乱期の芸能界で活躍、高島忠夫と寿美花代は、2年の交際を経て昭和38年に結婚。

結婚の翌年には、長男・道夫が誕生します。

そのころ、忠夫は、演出家・菊田一夫が手がけた日本版ブロードウェイミュージカルに出演。日本にミュージカルを根づかせた立役者のひとりとなります。

公私ともに充実した日々でしたが、突然の不幸が高島家におそいかかります。生後5か月の道夫が、出入りしていた未成年の女性に殺害される事件が起きるのです。

これは、ワタクシらら子も知っているエピソードで、ベビーシッターの家政婦がやきもちを焼いたのが原因だったと聞いています。

以来、夫妻は、傷をいたわりあって生きていきます。

昭和40年に政宏、昭和41年に政伸が誕生しますが、家庭では明るくふるまい、長男のことは一切語らなかったそうです。

政宏さんの記憶でも、幼い時は忠夫さんが家族一緒にいることを望んでいたそうです。仕事は華やかであっても、それ以外はいたってごくごく普通に育てられたそうです。

昭和40年代になると、娯楽は、映画からテレビへと移行していきます。

忠夫と寿美は、料理番組「ごちそうさま」に出演。忠夫は軽妙な話術で、新境地を開きました。

いとこの高嶋ちさ子さんはTV好きで、特に「アメリカ横断ウルトラクイズ」が好きだったようです。

しかし、忠夫からは、ヴァイオリニストになるなら、TVよりバッハやモーツァルトを正座して聴きなさいと言われていたそう。

実際、忠夫の本棚には調べものの本がズラリとあったそうです。

意外な一面ですね。




高嶋政宏さんファミリーヒストリー:華麗なる芸能一家 政宏、政伸、芸能界へ

昭和62年、政宏は、映画「トットチャンネル」のオーディションに合格して俳優としてデビューします。

弟の政伸は、はじめは映画監督を目指します。しかし、大学時代、自主映画制作の借金を肩代わりしてもらうことを条件に俳優の世界へ入りました。

政伸さんは、俳優の仕事をしながらコツコツと忠夫さんに返したそうです。司会の仕事が多くなった忠夫は、全力で息子ふたりの活躍を後押ししたそうです。

家族全員が芸能人となった4人は、ファミリーコンサートを開くなど、日本で一番知られる芸能一家となりました。

政宏さんは、忠夫から「下手でもセリフは必ず覚えていけ」、「遅刻はするな」、「あいさつは必須だ」といわれたそうです。

亡くなった長男の道夫さんのことについて、家庭では全く話さなかったそうです。政宏さんは、高校の時に話してもらったそうです。

1995年1月17日、阪神淡路大震災が起こり、忠夫、寿美の親族も被災しました。

東灘区で日本料理店を営んでいるおいは、被災したとき、寿美さん、忠夫さんのふたりから別々に支援の連絡を受けたそうです。

お二人の人柄を思わせるエピソードですね。




高嶋政宏さんファミリーヒストリー:父・忠夫の闘病と家族への思い

震災の翌年、忠夫と寿美は、長年出演していた料理番組を勇退します。

1998年8月、68歳の忠夫は、夏の日に「寒い!」といい出します。診療内科にかかり、いったん快方にむかいました。

しかし、体調もいいからとフロリダへ行って、戻ったら悪化するのです。

医師の診断は、うつ病でした。政宏は、ミュージカル全国ツアー終了のときに自宅で父に会いましたが、それは、まるで別人のようでした。

忠夫は、番組をすべて降板します。

まもなくして、母・はるが100歳で死去します。寿美は、忠夫に伝えるべきか悩みます。主治医に伝えたところ、「伝えると後追い自殺するから伝えないように」と、言われます。

なんてつらいことでしょう。

その後、「母」という言葉はNGワードとなり、母のことを思い起こさせないよう家族で四苦八苦、まるで喜劇のようだったと当時のことを語って下さいました。

寿美さんは、忠夫さんの明るさに助けられました。

今度は、笑顔で夫を笑顔で励ます番だと、献身に支えました。忠夫さんは、88歳で旅立ちます。

忠夫は、発病する前にふたりの息子について

「私は、映画斜陽の中、芸が身を助けたが役者失格になってしまった。息子たちには、名優になることを目的に自身を犠牲にすることないよう健康で幸せに長生きしてもらいたい。」

と語っていたそうです。

今、政宏さんは、同じことを思っているそうです。愛情にあふれた高島ファミリーのヒストリー、感動しました。