最高峰の名人の写真集『文楽吉田玉男』レビュー:二代目玉男さんのお宝写真も!

こんにちは!らら子です。

人形遣い初代の吉田玉男さんは、今人気の二代目玉男さんの師匠で
最高峰の名人といわれた方です。

らら子が文楽を観るようになったのは、この10年ほどなので、
その芸を直接見ることとはできませんでした( ;∀;)

どんな方だったのか、どんな芸だったのか。
今は、映像や写真で知るだけです。

まずプロフィールを調べてみました。

初代吉田玉男さんのプロフィール

誕生日:大正8年(1919)年1月7日
出身:大阪府
本名:上田末一

[芸歴]
昭和8(1933)年3月 吉田玉次郎に入門、吉田玉男と名乗る。
昭和9(1934)年3月、四ツ橋・文楽座において「和田合戦女舞鶴」の綱若で初役。
平成14(2002)年『曽根崎心中』の「徳兵衛」役1111回目の上演

平成18(2006)年9月24日 ご逝去

[受賞歴]
昭和52(1977)年 重要無形文化財保持者(人間国宝)
昭和53(1978)年 紫綬褒章、
平成元(1989)年 勲四等旭日小授賞、
平成11(2000)年 文化功労者。
その他、受賞多数。

玉男さんが入門したのは14歳の時。
戦争中の1940-1944年の間は兵役(5年5ヶ月)で文楽を中断。

そうか、戦争だ。

1946年に復帰して、1955年に徳兵衛役で『曽根崎心中』復活上演します。
今でこそ、曽根崎心中は文楽の名作として当たり前のように上演されていますが、
玉男さんが復活させたんですね。

2002年に『曽根崎心中』上演1111回を達成します。
この写真集は記念のお祝いということのようです。

玉男さんが亡くなったのは平成18(2006)年9月24日12時12分だそうです。

その日は東京公演の千秋楽で、ちょうど昼の部。
国立劇場では玉男さんの代表作「仮名手本忠臣蔵」を上演していて、
休演の吉田簑助さんに代わって、初役の大星由良助を代役して話題になったそうです。

なんだか運命的なものを感じます。

休憩時間後に代役に立たれた吉田簑助さんは、
そのことを知っていらしたのでしょうか。
考えるだけで、切なく胸がぎゅっと締め付けられます。

『文楽吉田玉男』小川知子 撮影 演劇出版社 2003.(ISBN 9784900256781)

この本は、初代玉男さんの名場面の写真と玉男さんのことばでつづられています。
謙虚でまじめで、そして思いのほかユーモアのある方だとわかります。

芸歴70年、たゆまぬ努力によって積み上げられたその芸には、並みの訓練、稽古量では、なかなか到達できない道がある。文楽立役遣いの最高峰、吉田玉男の端正な芸の魅力を凝縮した写真集。
〜BOOKデータベース〜

名場面の写真は、小川知子さんという方の撮影です。

今よく見る文楽の舞台写真は、人形遣いが一緒に写っているのが当たり前と思っていたのですが、
この本の写真は、人形だけが映っていることも多いです。
その表現力の豊かさにハッと胸を突かれます。

舞台写真も練習風景も、
若い頃の現・玉男(当時:玉女)さんが映り込んでいます。

TAMAO No と書かれた人形のボディ……もとい、胴も。
二代目玉男さんの本『文楽をゆく』でも、
先代から伝わったものTAMAOと入った胴の写真がありました。

ひたむきに人形を遣う若き日の玉男さんと、それを見守る師匠。
うるわしい師弟愛が映っていて、これもひたひたと感動します。

あとは電車通勤とかの貴重なオフショットも。
電車に乗る人間国宝!!!

巻頭の人間国宝の故・竹本住大夫さんと三味線の故・鶴澤寛治さんのことば

お二人のことばを少し書きだしてみます。まずは住大夫さん。

これがまたやわらかくていいんですよねー。
こんなに大阪弁ってきれいなんだーと、これも感動。

言わず語らず

竹本住大夫

玉男はんは、昭和の戦前から人形遣いになったはる貴重な人です。

初代栄三(えいざ)さんの足を遣うてはったし、その他先輩方の芸を頭と体で憶えたはる人です。今の人達とは、修業が違います。立派な立役遣いでんな。人形の動きが少く、上品で肚が出来ていて、こんな人形遣いさんは今後もう出ないと思いまんなあ。

由良助、菅丞相、良弁上人、みんな素晴らしいですね。これは教えて教えられるものではおまへん。
(略)

どこまでも二枚目で通してほしいと願っています。

初代・吉田栄三(えいざ)さんというのは、昭和から戦前に活躍した名人で、1945年に疎開先で亡くなったそうです。

次に、鶴澤寛治さんのことば。

初演の頃から

鶴澤寛治

九歳違いの玉男兄さんには、子どもの頃から可愛がってもらいましたが、戦後は、巡業のトラックでの移動や道具運びを皆で手伝うなど一緒の思い出はたくさんあります。

なかでも兄さんが先に復活初演から徳兵衛を遣い続けて1111回の記録を達成された『曽根崎心中』は、私にとりましても特に思い出深い作品です。と申しますのが、前年の暮れ、熊野神社にあった私の家で「道行き」のふり写しをされたのです。戦後のあの時代ですから、ご贔屓の好意で借りていた一間っきりの小さな家に演出・作曲の野澤松之輔師匠と振付の林扇矢さん(後の澤村龍之介)がみえて……。(後略)

そうだ、「戦後のあの時代」
食べるものも、着るものも、不足して、人形や衣装もたくさん焼けて
そういう時代を生き抜いてこられた方々だったんだなぁ。

お二人とも、玉男さんが登場すると舞台の雰囲気が締まると書いていらっしゃいます。そしてそんな人形遣いはもうこの先でないだろうとも書いてあります。

どれだけすばらしい芸だったのか、実際その場で感じたかったなと思います。

吉田玉男さんのエッセイが面白てやがてしんみり

写真の間に、玉男さんのことばがときどき入ってるのですが、写真集の最後に玉男さんのエッセイがあります。

思い出話とか芸に対する思いとか、タイトルごとにいくつか。
実は、修業の辛さになんども文楽を逃げ出していたとか、知られざる事実も!!!

まじめに書いてあるんだけど、これが面白いです。
くすっと笑えるユーモアやシャレがきいています。

初番付

「男にしてください」

昭和八年三月、四ツ橋文楽座の楽屋で、私はかしこまって玉次郎師匠にそうお願いしていた。越すではなく、夫でもなく、男にしてもらいたい。「玉」の下につけるオの字をどうするか、芸名の話である。

新入りの私を、師匠ははじめ、吉田玉太郎と名付けようとした。(略)そんなことから「タマオでええやろ」「オはどんな字に」となり、「玉男」にしてもらったのである。玉雄や玉夫では芸名には少し平凡すぎるように思えたのだ。

初代玉男の名は、その翌々月、初めて番付に載った。役に「百姓」「町人A」とあるのは、一人で使う端役のツメ人形である。

(後略)

雄や夫はありきたりで男ならいい。
こだわりどころがよくわかりませんが、14歳の吉田玉男誕生の瞬間です。

そのおかげで「わしが男やから女」で現・玉男さんの前の名前「玉女」という画期的な芸名も生まれたんですね。

そして、どんな名人も初めはその他おおぜいから始めるんですね。
あたりまえだけどすごい。

あー、観たかったな。玉男さんの芸。

そして、最後のほうには、こんなことばではじまるエッセイも。

世代交代

文楽の人たちはどういうわけか、昔から連れもって逝ってしまう。連れもって、つまり、手に手を取って一人が亡くなるとそれにつづくように何人かが遠い国へと旅立つのだ。
(後略)

巻頭にことばを寄せていた住太夫さんも寛治さんも、
ここ数年でぱたぱたと「連れもって」遠い国へと旅立ってしまいました。

世代交代が急ピッチで進んでいるのを、ファン歴の浅いらら子もひしひしと感じます。
名人亡きあと、写真集がのこされてよかったと心から思います。