こんにちは、らら子です。
朝ドラ『らんまん』。寿恵子が開いた待合茶屋に、相島圭一(あいじまけいいち)さんが連れてきたのが小林一三(こばやしいちぞう)さん!
宝塚ファンのワタクシ、らら子としてはうれしい驚きです。なんで宝塚?と思った方もそうでない方も、ぜひ最後まで読んでください。
小林一三さんのビジネスモデルはどういうものか?相島圭一さんの実在モデルは誰なのか?植物とどうかかわっていくのか?さっそく見ていきましょう!
らんまん寿恵子(すえこ)渋谷の待合茶屋は実話?今後どうなる?死因やスエコザサ学名は?万太郎は?NHK朝ドラ
[フォトギャラリー] 寿恵子の店では…「らんまん」第116回の場面写真#朝ドラらんまん #神木隆之介 #浜辺美波 #濱田龍臣 #森岡龍 #海宝直人https://t.co/kS4UFMtAFj
— シネマトゥデイ (@cinematoday) September 9, 2023
目次
らんまん相島圭一のモデルは誰?鉄道会社はどこ?
相島圭一のモデルは「西の小林、東の五島」と呼ばれた東急グループの五島慶太(ごとうけいた)氏と言われています。
史実では、小林一三(1873年 – 1957年)、五島慶太(1882年- 1959年)と、少し年齢は離れています。
ドラマでは渋谷の待合茶屋「山桃」に、客としてやってきた小林一三(海宝直人)。
連れてきたのは、寿恵子が仲居で働いていた「巳佐登(みさと)」の常連客、相島圭一(森岡龍)です。
相島圭一は岩崎弥之助のお座敷のイツメンですね。菊くらべの場にもいました。その時、ノジギクも寿恵子も気にったのでしょうね。
ノジギク岩崎弥太郎弟の弥之助!らんまん菊千代の女優は誰?NHK朝ドラ
菊くらべをした料亭のみなさんでオフショット🌼#朝ドラらんまん#浜辺美波 #宮澤エマ #三上真史 #岡部ひろき #皆川猿時 #近藤公園#森岡龍 #華優希 #原扶貴子 #鈴木壮麻#那須凛 #佐々木史帆 #島村聖香 #坂田舞子 pic.twitter.com/zUMsFE2AAS
— 連続テレビ小説「らんまん」 (@asadora_nhk) August 25, 2023
相島は「通だけが知る店」と小林を連れてきたので、二人はうちとけた仲なのでしょうね。ビジネスの密談のために渋谷まで来たんですね。
店の脇に植えられた山桃(やまもも)の木に目をとめる小林一三。
東京ではここにしかないと聞いて何かピンときたのか、興味がわいた様子です。
今は新橋の「巳佐登(みさと)」から仲居のフミ(那須凛)が手伝いに来ています。
もちろん相島圭一のことも良く知っています。
お座敷ではニコニコおとなしくしていたけど、ああいう人ほど大化けして大富豪になりそう♪と、フミはワクワク。
さすがベテラン仲居のフミはするどいですね(笑)
らんまん相島圭一と渋谷!小林一三とのかかわりは?
ドラマでは山桃の座敷で、床の間の掛け軸に見入る小林。
掛け軸が植物画ですよ(^_-)-☆
この時、相島圭一は逓信省鉄道庁の役人。
ドラマの小林一三は銀行員で、関西への赴任を控えています。すでに鉄道業での成功を信じていて、関西でビジネスを展開する気が満々です。
女将の寿恵子に向かって、郊外に安く土地を買って街をつくるビジネスモデルを熱く語ります。
小林は、つまらない役人などやめてしまえと相島をたきつけます。
/
「あなたが渋谷に降り立てばいい!」
\
こうして二人は東西の鉄道の両雄になっていきます。
五島慶太は小林一三を師と仰ぎました。
ところで、なぜ小林一三は実名で、五島慶太は架空名なんでしょうね。大人の事情でしょうか。
寿恵子が営む待合茶屋に来た相島と小林。
鉄道事業についておもしろい考えを持っている小林は、寿恵子たちの前で相島をたき付けました。#朝ドラらんまん#海宝直人 #森岡龍 #小林一三 pic.twitter.com/HTWXj4iC6Z
— 連続テレビ小説「らんまん」 (@asadora_nhk) September 11, 2023
らんまん相島圭一が学んだ小林一三のビジネスモデル「乗客は電車が創造する」
渋谷の発展には、小林一三のビジネスモデルが大きく影響しています。
小林一三(こばやしいちぞう)氏は、阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)の創業者です。
グループ企業は、阪急電鉄をはじめ、阪急デパート、阪急ホテル、宝塚歌劇、東宝映画などいろいろ。
ちなみに「東宝」は「東京宝塚」の頭文字なんです(豆知識)
小林一三氏は、元は三井銀行に勤めていましたが、天才的なビジネスセンスを持ち、実業家に転身しました。
今では、鉄道会社が住宅地を開発したり、主要駅にデパートやホテルを作ったり、多角的に沿線住民をファミリーごと取り込むのは当たり前のことです。
あまっている広大な土地を安く手に入れて、さきに人が住む街を作り、あとから鉄道をひく。
このビジネスモデルを100年以上前に打ち出したのは小林一三氏です。
建売住宅を割賦(かっぷ)、つまり住宅ローンで販売する方式を始めたのも小林一三氏。
沿線の終点にあるひなびた温泉地に客を呼び込もうと、今でいうエンタテイメントパークを作ったのも小林一三氏。
少女歌劇団を結成して、敷地内のプールを転用して劇場をつくり、宝塚歌劇団を創立しました。宝塚歌劇団は2024年に110周年を迎えます。
かつては宝塚ファミリーパークという遊園地や、阪急ブレーブス(現:オリックス・バファローズ)という球団もありました。
阪急が開発した住宅街の住民は、阪急電車で通勤・通学し、休日には家族そろって阪急デパートで買い物をして、食堂で食事をして帰る。
映画を観て、遊園地で遊んで、野球を観て、温泉入って、宝塚歌劇観て、なんでもござれ。
小林一三氏は「乗客は電車が創造する」の名言通り、沿線住民の衣食住と楽しみを創り出して、事業を発展させていきました。
今や阪急沿線に住むこと自体が、住民のステイタスになっています。
らんまん相島圭一に渋谷を小林一三がたきつける!関東大震災で発展
五島慶太氏が作り上げた東急電鉄は、渋谷と横浜を結ぶ東横線に代表されるように、渋谷を拠点とする鉄道会社です。
東急の本社も、東急百貨店も、人気のファッションビル109(いちまるきゅー)の本店も、渋谷にあります。
ちなみに109は10と9でトーキュー=東急です(豆知識)
相島圭一のモデル五島慶太氏は、鉄道院の官僚でした。
1920年に38歳で、現在の東急東横線の前身のひとつ、武蔵電気鉄道の常務に転身します。
東横線と言えば、一番のブランド住宅地は田園調布です。
実業家の渋沢栄一氏らが、駅を中心として円形に街を作り、理想的な高級住宅街を作りました。
周辺一帯に目黒駅と蒲田駅からの路線を通す、荏原電鉄という会社が作られましたが、しろうと経営で失敗💦
そこで、阪急電鉄(当時は阪神急行電鉄)総帥の小林一三氏が呼ばれました。
表に名前は出さない、給料はなし、日曜日のみ働くという条件で、宅地と鉄道の開発にとりくみます。
多忙な小林一三氏は、鉄道院出身の五島慶太氏を実質的な経営者に推薦します。
/
まず、目黒蒲田でもうけてから渋谷に着手すればいい。
\
五島氏は小林氏に説得されて武蔵電気鉄道と荏原電鉄を兼務し、1922年に目黒蒲田電鉄が誕生。
これが東急電鉄の始まりです。
大正12年(1923年)関東大震災のあと、渋谷は予想を超えて大きく発展していきます。
らんまん五島(相島)は阪急をお手本に事業展開!
1932年に東横線渋谷~桜木町間全線開通。沿線には田園調布駅もあります。
五島氏は1936年に取締役社長に就任します。
五島氏は小林氏の手法を学び、阪急をお手本に東京から神奈川にかけて多角的な事業を発展させます。
時に、強盗慶太(ごうとうけいた)ともいわれる強引な手口で企業買収を行なったといいます。
さらに慶応大や東工大などの大学や、学芸大学附属中学・高校、都立高校も誘致。
安定した通学客の確保と高学歴の住民を呼び込んで、沿線のイメージと土地の価値を高めていきました。
地方の農家の出身で苦学した五島氏は、教育活動にも熱心でした。1955(昭和30年)には、初代理事長として学校法人五島育英会(ごとういくえいかい)を設立。
現在は東京都市大学を中心とした都市大グループという名で、幼稚園から大学、さらに自動車学校なども運営しています。
また、五島氏は美術コレクターという面も、小林一三氏と共通しています。
東京都世田谷区上野毛(かみのげ)にある五島美術館は(ごとうびじゅつかん)は、五島氏が長年かけて収集した美術品を一般公開する目的で構想されました。
渋谷ヒカリエにある東急シアタオーブでは、海外ミュージカルの来日公演や宝塚歌劇団の外部公演が行われていて、ワタクシらら子も楽しませていただいています。
らんまん小林一三すごい文化人!牧野富太郎との関係は六甲ブルー?
史実の小林一三氏は、天才的なビジネスセンスだけでなく、芸術的なセンスも優れていました。
逸翁(いつおう)という雅号を名のり、20代の頃から芸術や文化を深く幅広く愛し、茶人としても一流でした。
美術品や骨董品などのコレクションは、逸翁美術館で見ることができます。
小林一三氏がすごいのは、宝塚歌劇団の前身の少女歌劇団を、少女の踊り子集団からいかがわしさを遠ざけたところだとワタクシ思っております。
商業演劇でありながら「清く 正しく 美しく」がモットー。
音楽学校で規律正しい生活と礼儀正しさを身に着けさせながら芸事を教育し、女性の経済的自立と花嫁学校的なしつけの両面を実現しました。
ところで、小林一三氏と牧野富太郎博士の直接的な関係は、あまり語られていません。
牧野博士自身は阪急のエリアにある神戸にはよく訪れています。
大スポンサーの池長 孟(いけなが はじめ)氏の名を冠した池長植物研究所が、神戸にあったためです。
神戸市の市花として親しまれているのは、女性的で優美なヒメアジサイ。ヒメアジサイは牧野博士の命名です。
六甲山上のアジサイが戦中戦後の間に枯れてしまったことを悲しんだ、小林一三氏が六甲山をアジサイの山にしたいと苗の提供を申し出て、六甲山にヒメアジサイが植えられました。
六甲山は花崗岩で酸性の土壌なので、「六甲ブルー」と呼ばれる鮮やかな青いヒメアジサイが群生しています。
https://twitter.com/feelkobe_jp/status/1268146634501705728