キレンゲショウマ発見者は田辺教授モデル矢田部良吉?吉永虎馬?学名は?何科何属?yatabe?tanabe?田邊彰久

こんにちは~。らら子です。

朝ドラ『らんまん』で田邊(たなべ)教授と万太郎の間で、それと知らずにデッドヒートを繰り広げたキレンゲショウマ。

先に果実を手に入れた田邊教授が、自分の名前を入れた学名を付けました。史実ではどうだったのでしょうか?

https://twitter.com/JKHb7300H5YfzP3/status/1683579052710322177





キレンゲショウマ発見者は誰?吉永虎馬(山元虎鉄のモデル)?

ドラマでは、山元虎鉄(やまもとこてつ)少年が、標本を送ってきてくれたのがきっかけです。

少年との出会いはこちらをご覧ください。

山元虎鉄(やまもとこてつ)らんまんヤッコソウ:山本小鉄一発見者モデルは山本こてつ?虎徹?新科植物学名由来は?NHK朝ドラ連続テレビ小説

高等小学校の修学旅行で伊予(現在の愛媛県)に行った虎鉄君、石鎚山(いしづちさん)に見つけた植物標本を送ってきてくれました。

その中に、大きな葉を持つ黄色い花(キレンゲショウマ)の標本がありました。

一瞬で心うばわれる万太郎、研究を開始します。

同じ時期に、研究室で伊予の植物採集旅行に出かけた田邊彰久(たなべあきひさ)教授も、同じ植物と出会います。

万太郎より一歩先に、教授が果実と種子を手に入れて新属新種の検定に成功した、というのがドラマのお話。

史実では、山元虎鉄少年のモデルである吉永虎馬(よしながとらま)さんが発見しています。

明治21年(1888年)8月3日、徳島県尋常中学海南学校の生徒だった18才の時に、先生と生徒とで石鎚山に登山します。

山小屋の裏手の沢に水を汲みに行くと、見たことがない黄色い花が群生するのを発見。山小屋に持ち帰りました。

田邊教授のモデルといわれる矢田部良吉(やたべりょうきち)博士が、たまたま植物採集旅行で近くの宿に滞在していました。

そのことを知った吉永虎馬さんと先生は、矢田部博士を訪ねて鑑定を依頼。

矢田部博士は

「黄花のレンゲショウマの意味でキレンゲショウマとでも言ったらよからん」

と回答したとされています(出典:吉永虎馬, “キレンゲショウマ発見当時の話”, 植物学雑誌, 1930-1931, 7(2), p.43-53 )

矢田部博士は、この花をレンゲショウマの一種と判断したのですね。




キレンゲショウマ発見者は誰?矢田部良吉(田邊教授のモデル)博士?yatabe⇒tanabe

史実では、最初の発見から7日後の明治21年(1888年)8月9日に、矢田部博士自身が石鎚山の別の場所で吉永虎馬さんと一緒に標本を採集。

2年後の秋に、吉永虎馬さんの父が果実期の標本を矢田部博士に送ります。

矢田部博士は自分の発見として、自らの名前を入れた学名をつけました。

和名:キレンゲショウマ(黄蓮華升麻)

学名:Kirengeshoma palmata Yatabe

palmata というのは、掌、手のひらのようなという意味です。

ユキノシタ科の1属1種の植物で、日本人として初めて属を発見

ラテン語ではなく和名を学名としました。西洋の植物学界には頼らないという決意を込めたのでしょうか。

……えーと、学名には吉永虎馬さんの名前は入ってないですね。

果実の採集者として吉永虎馬さんの兄の吉永悦郷氏の名前がE.Yoshinagaとして入っています。

ドラマでは、お互い知らずに競走になっていたわけですが、かたや参考にする植物の本をあまり持っておらず、たった一人で研究する万太郎。

果実の標本が欲しくても、東京を離れられず、土佐在住の山元虎鉄君に伊予の植物採集を頼むわけにはいきません。

一方、田邊教授は、本も標本もスタッフもたくさん持っています。

現地に頼んで果実がつく時期の標本を手に入れた田邊教授が、先に学名をつけることに成功します。

ドラマではYatabeではなくTanabeになっています。

キレンゲショウマ(黄蓮華升麻 学名Kirengeshoma palmata Tanabe)

手に汗にぎる展開でした。

先を越されたと知った万太郎は、遠くから田邊教授に敬意を表します。



キレンゲショウマ発見者は誰?牧野博士が矢田部博士の間違いを批判!

ところで、キレンゲショウマはユキノシタ科。

矢田部博士が似ているといったレンゲショウマはキンポウゲ科。

ワタクシ素人が見ても、キレンゲショウマとレンゲショウマとは似ていません

実際の発見者である吉永虎馬さんは、若い頃から牧野博士と親交があり、のちに植物学者となりました。

発見当時を振り返って、 “キレンゲショウマ発見当時の話”を植物学雑誌に書き残しています。(出典:吉永虎馬, “キレンゲショウマ発見当時の話”, 植物学雑誌, 1930-1931, 7(2), p.43-53)

文中に「牧野富太郎云フ」という部分があり、牧野博士が矢田部博士の誤りを指摘し、批判しています。

牧野博士は、矢田部博士がこの植物を初めて見たときにレンゲショウマの一種だと間違えたのは無知だったと指摘。

さらに矢田部博士の性格を「すこぶる強情な人であった」といっています。

研究が進んでから、明らかにキンポウゲ科のレンゲショウマとは違うとわかっても、誤りを認めることができなかったのだろうと分析。

このことは、矢田部博士が大学教授に相応しくなく、無学であることを世間に知らせただけだとまで書いています。

大学の教授とでも言わるる人のなすべきことではなく、却ってそれはこの植物に対し始め全く無学であったことの標識を世に提供したに過ぎない結果におわるばかりである

出典:”キレンゲショウマ発見当時の話”(実際は旧漢字とカタカナの文)

牧野博士キビシー!!ドラマの万太郎さんとはかなり違いますね。

https://twitter.com/kuniaki_shimbo/status/1691996173387915327

(TrumpetのKuni@kuniaki_shimboさんアップありがとうございます。素晴らしいです。)





キレンゲショウマ発見者は誰?田邊教授まさかのナレ死ならぬ見出し死

ドラマでは田邊教授まさかのナレ死ならぬ見出し死となってしまいましたね。

史実の矢田部良吉博士も、東京帝国大学を非職(解雇)された後、女学校の校長となり、海水浴に出かけて溺死しています。

矢田部博士の名がついた新種の植物は、キレンゲショウマ以外にあったのかはまだ調べられていません。

そうそう新種は見つからないし、検定にかける労力を考えると、もしかしたら唯一の学名かもしれません。

もし、たくさん見つけていたら学名に合わせるために、役名もヤタベという苗字にしたでしょうからね(^_-)-☆

逆にいえば、新種や新品種など1,500種類以上を命名したといわれる牧野富太郎博士のすごさが改めてわかりますね。

ドラマでも史実でもあまりよく言われない矢田部良吉博士ですが、日本の植物学のさきがけとなった功績は大きいですね。

影ではユーシーというあだ名で呼ばれていたという矢田部博士。You see?(わかる?)やYou know?(わかってる?)というのが口癖だったとか。

アメリカかぶれの、鼻につく感じの人だったのでしょうか。

ドラマでも田邊教授は何かというと英語を口走り、陰でユーシーと呼ばれていました。

でも、ドラマでは権力争いに敗れたあと、植物学者としての使命を取り戻し、家族への愛にも目覚めます。

自ら採集したキレンゲショウマを研究し、ついに発見者として自分の名前を学名につけるという感動的な展開になっていました。

それだけに、あっけない博士の死が惜しまれるという演出でした。




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