ブギウギ!桃色争議とは?松竹ストライキは実話?大和礼子モデルは誰?結果は?ももいろそうぎNHK朝ドラ

朝ドラ「ブギウギ!」3週目は桃色争議!つまりストライキです!

不景気の波はUSKにもおしよせてきます。

トップスター大和礼子が一同を前に「ストライキしかない」と語りかけます。いったい何が?さっそく深掘りしていきましょう。





ブギウギ!桃色争議!ストライキは実話?

福来スズ子のデビューから6年後、子役時代が終わり、スズ子役もいよいよ趣里さんの出番となります。

USKの公演はすべて単独公演になり、専用の楽団もついています。楽屋も映画館の通路から独立した和室に。幹部部屋もあります。

しかし、1日に3回公演で合間に稽古も入り、劇団は大忙しです。

同期のリリー白川(清水くるみ)は人気娘役。花咲少女歌劇団から移籍してきた人気男役の秋山美月(井原六花)と組んで二番手スターの立場に。

一方、スズ子と桜庭和希(片山友希)は、脇役のまま。

憧れのトップスター大和礼子(蒼井優)に少しでも近づきたいスズ子、苦手なバレエを克服するべく、居残り練習はもちろん、実家の風呂屋でも練習に励んでいます。

演出も手がけるようになった大和礼子は、聡明で一歩先が見えている人。劇団を1段上にあげようと努力しますが、さまざまな対立や分裂を生みます。

昭和4年は昭和恐慌でどこも景気が悪く、銭湯でもぼやく声がしきり。

労働者と使用者との間に起こる争議があちこちで起こり、路上でも抗議デモが行われるようになっています。

こういうときにあおりを食うのはエンタメテイメントなんですよね。梅丸株式会社も例外ではありませんでした。

劇団存続のために、団員の人員削減や賃金カットが行われることに!

スズ子たちは会社に嘆願書を提出しますが無視されます。

会社側は団員の分裂を図ります。ついに待遇改善を求めて、ストライキを決行。山寺にこもります。





ブギウギ!桃色争議!大和礼子の実在モデルは?

スズ子の所属する梅丸少女歌劇団(USK)のモデルは、大阪松竹歌劇団(現:OSK日本歌劇団

当時は松竹楽劇部でした。

大和礼子のモデルは、バレエの名手として絶大な人気を誇っていたトップスター飛鳥明子(あすかあきこ)さんです。

開業医の娘として1907年に生まれ、高等女学校卒業後に松竹楽劇部に入団。退団後は29歳という若さで病気のために亡くなりました。

当時の松竹楽劇部は、映画上映に併わせて上演されていましたが、1926年4月に上演した『春のおどり』が好評で、単独公演の軌道に乗ります。

1928年に上演された『松竹座ダンス』からは洋風のレビューに転換。お色気もある「松竹レビュー」が確立していきます。

1928年には東京に浅草松竹座が開演。松竹楽劇部が大阪から上京して公演を行ないました。

後に、「東京松竹楽劇部」を設立。しばらくは大阪から出張して公演の応援をしていましたが、やがて単独公演を行なうようになり、独立。

それからは姉妹劇団としてそれぞれの道を歩み始めます。

しかし、公演回数は多く、低賃金、交通費が支給されないなどの金銭面だけでなく、楽屋やトイレの衛生状況など、労働環境は劣悪。

昭和恐慌のあおりで団員の削減や賃金カットも行われて、やがて桃色争議とよばれるストライキに発展します。





ブギウギ!桃色争議とは?ターキー争議!頑張りガールとお詫びガール

史実では1933年(昭和8年)6月13日、東京の松竹歌劇部(SSK)の部員230名がストライキを起こします。

楽団員の首切りに抗議、労働環境や勤務体制などの過酷な労働条件の改善を求めたものでした。

リーダーは松竹歌劇部の第一期生の水の江瀧子(通称ターキー)。

当時は18歳。髪を短く切り、男装の麗人として大人気のスターでした。

団員のうち約130人はその後、湯河原温泉の城に立てこもり、大規模な抗議活動を決行。

当時はストライキは労働争議ともいわれ、「桃色争議」や「ターキー・ストライキ」呼ばれて世間の注目を集めます。

労働団体の全面協力も得て本格化します。

大阪松竹楽劇部もこの運動に賛同し、6月28日には飛鳥明子を先頭にストライキを開始します。

その中には、スズ子のモデルである笠置シヅ子(当時は三笠静子)も含まれていました。

約50人の部員は高野山に立てこもり抗議活動を開始。

飛鳥明子たちは大きな幕を掲げて、高野山の参詣客に向けて大々的に演説をしました。

会社側は、首謀者の水の江瀧子さんを懲戒解雇にするなど、厳しい態度に出ます。さらに水の江瀧子さんは警察に一時拘束されます。

しかし、世の中の人々は、うら若き少女たちの必死の活動に心打たれ、ストライキに参加した部員たちを「頑張りガール」と呼んでほめたたたえます。

会社側は部員の分裂をはかりさまざまな工作を行います。世論は会社側についた部員を「お詫びガール」と軽蔑します。

騒動の中、ライバルの宝塚歌劇(ドラマでは花咲)は客足を伸ばすなど、会社側はふんだりけったり。ストライキは成功しました。

「頑張りガール」と「お詫びガール」も和解。

水の江瀧子さんは謹慎処分となりましたが、やがて復帰。飛鳥明子さんはストライキの責任をとって退団しました。

ドラマでは大和礼子が退団、男役トップスターの橘アオイも一緒に退団しました。




まとめ♪ブギウギ!桃色争議とは?松竹のストライキは実話?大和礼子モデルは誰?結果は?

ブギウギ!に出てくる「桃色争議」は、実際に松竹少女歌劇団で起きた労働争議の実在する名称。

史実では、東京・浅草の松竹座を拠点とする東京の松竹歌劇部(SSK)の部員230名が、労働環境の改善を求めてストライキを起こしました。

リーダーは松竹歌劇部の第一期生で、絶大な人気を誇った男役の水の江瀧子(通称ターキー)。

ターキーの名前をとってターキー争議とも呼ばれました。

東京組は湯河原の温泉旅館でストライキを決行。

スズ子のモデルとなった笠置シヅ子(当時は三笠静子)が所属する大阪の松竹歌劇団は、東京のストライキに呼応する形で、高野山に立てこもります。

大阪のストライキのリーダーはトップスターの大和礼子のモデルとなった飛鳥明子です。

松竹側は強硬な態度に出ましたが、少女歌劇のストライキは、世間の注目と同情を集めて成功。

水の江瀧子さんはいったんは解雇となりましたが謹慎処分となり、やがて復帰して大ヒットを飛ばします。

飛鳥明子さんは責任をとって退団。その後、病気のために29歳の若さで亡くなりました。





シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

関連コンテンツユニット(レスポンシブ)