らんまん野宮(のみや)実在モデル誰?南方熊楠との関係は?朝ドラ波多野宮・NHK

こんにちは~らら子です。
毎朝楽しみに見ているNHK朝ドラ『らんまん』。今日は画工・野宮さんにスポットを当てます。波多野宮コンビで研究し、ついにイチョウの精子を見つけましたが、大学を去ります。
実在モデルはいるのでしょうか?今後はどうなるのでしょう?南方熊楠(みなかたくまぐす)との関わりは?

さっそく深掘りしていきます。





らんまん野宮どうなる?俳優は誰?波多野宮コンビ!

植物学教室の画工・野宮朔太郎(のみやさくたろう)さん。

福井の中学校で図画の教師をしていたところ、絵の才能を見込まれて田邊教授にスカウトされて上京しました。

実は植物や静物よりも、生き生きとした人物画を描きたい野宮さん、画工は妻子を養うための仕事と割り切っています。

美しさを追求する田邉教授に言われるがままに、もくもくと芸術的な植物画を描いていました。

万太郎に対して、初めは心を閉ざしていた野宮さんでしたが、万太郎の描く写実的な絵に惹かれていき、やがて仲間となっていきます。

万太郎が田邊教授から植物学教室の出入りを禁止されると、勇気をふりしぼって田邊教授に抵抗もします。

やがて波多野の熱いアプローチで一緒に研究をはじめ、顕微鏡でしか見えない世界を描ける唯一の画工となります。

さらに、植物学者として研究に打ち込み、ついにイチョウの精子の大発見をします。

しかし、大学や日本の学会は画工上がりだとして野宮さんの成果を認めません。野宮さんは辞表を出して大学を去っていきます。

野宮朔太郎を演じるのは、文学座所属の俳優、亀田 佳明(かめだ よしあき)さん。

1978年10月31日生まれ、身長は175cmです。

出身地:東京都誕生日:1978年10月31日身長:175cm趣味・特技: 経歴:2001年 文学座附属演劇研究所入所 2006年 座員となり、現在に至る。受賞歴:2019年度 第五十四回紀伊國屋演劇賞・個人賞
(『ガラスの動物園』『タージマハルの衛兵』)

文学座公式サイト

https://twitter.com/bungakuza/status/1660788982786199556





らんまん野宮どうなる?実在モデルは平瀬作五郎?どんな人?

野宮朔太郎のモデルは、平瀬作五郎(ひらせさくごろう)さんと言われています。

史実の平瀬さんは、福井県出身。安政3年1月7日(1856年2月12日) – 大正14年(1925年)1月4日)。

福井藩中学で油絵を学び、卒業後は東京で写実的な油絵を学びます。その後、明治8(1875)年に岐阜中学の図画教師となりました。

この時点でまだ17歳。この時代は仕上がりが早いですね。

兼務で岐阜県農学校の教師もしていて、スキルが大変高く、教科書も出しています。

田邊教授のモデルである矢田部博士が平瀬さんを直接スカウトしたのではなく、間に仲介役がいました。

それは、矢田部博士と共にアメリカに留学した内藤誠太郎(後に堀誠太郎)さんです。

内藤さんは、岐阜県農学校で起きていた騒動を収めるために校長として赴任。そこで、平瀬さんを知ります。

絵が苦手な矢田部博士が画工を必要としているのを知っていた内藤さんは、矢田部博士に平瀬さんを紹介したと考えられています。

平瀬さんは明治21(1888)年から技手の身分で植物学教室に勤めます。画工のほかにプレパラートを作る仕事もありました。

研究熱心で器用な平瀬さんは、技手を経て明治26(1893)年には助手として研究もするようになります。

(出典:日本植物学会『イチョウ精子発見者平瀬作五郎:その業績と周辺』)





らんまん野宮どうなる?波多野との関係は?イチョウの精子の大発見は実話?

ドラマの波多野のモデルの一人は、ソテツの精子を発見した池野成一郎博士です。

平瀬さんは池野博士と共に研究に取り組み、イチョウの精子の発見をしました。

ドラマの語学の天才といわれた波多野と同じく、池野博士は語学にすぐれていました。

英語、ドイツ語、フランス語などができました。二人の発見は日本語で『植物学雑誌』に発表したあと、国際的にさまざまな言語で発表しました。

平瀬、池野も最初の短報は日本語で『植物学雑誌』へ発表したが、国際的にはドイツ植物学中央誌”Botanisches Centralblatt”へ独文で発表している。1897年に池野のソテツ精子発見の報が載り、次の号に平瀬のイチョウ精子発見の報が載った。

(出典:日本植物学会『池野成一郎のソテツ精子発見』)

ドラマでは、植物学後進国の日本での研究成果が海外でみとめられないという話も出ていました。

しかし、史実では、海外では大きな成果として受け入れられていたようです。

当時は、すでに牧野富太郎の成果が海外で知れ渡っていたでしょうから、ドラマほど偏見に満ちてはいなかったのではないかと思います。

「池野博士は木登りが下手であったが、自分は子供のころから得意であったので容易に大イチョウよりギンナンを取ることができた」と述べ、また、「シュトラスブルガーは西洋剃刀でギンナンを薄く切ったが、自分にはそれはできないので、慣れ親しんでいる日本剃刀を良く砥いで、薄く切ることを試みたが、それが成功の要因であった」と述べている

(出典:日本植物学会『池野成一郎のソテツ精子発見』)

ドラマでは容器に山盛りのギンナンを、次々と楽しそうにスライスする野宮さんの姿が描かれていました。

史実の平瀬さんは、手先が器用なだけでなく、木登りも上手でした(^_-)-☆

自ら大イチョウの木に登って大量のギンナンを取って、プレパラート用に薄くスライスしていたのですね。





らんまん野宮どうなる?イチョウ精子発見を日本中が疑ったのは事実?

ドラマでは、画工上がりの野宮さんの研究成果を、日本の学会がみとめなかったことになっています。

しかし、安心してください(^_-)-☆

史実の平瀬さんのイチョウの精子発見の成果は、第2回(明治45年5月12日)日本学士院恩賜賞(おんししょう)を受賞します。

同じ年に、池野博士の研究成果も仲良く恩賜賞を受賞しています。

公孫樹(いちょう)と蘇鉄(そてつ)ですね。

第2回(明治45年5月12日)

恩賜賞『公孫樹の精虫の発見』平瀬 作五郎
恩賜賞『蘇鉄の精虫の発見』理学博士 池野 成一郎

出典:日本学士院

ちなみに、この時の帝国学士院賞は、高峰 譲吉(たかみねじょうきち)博士が受賞しています。題名は「アドレナリンの発見」です。

熱い時代ですね。

ドラマでは野宮さんの研究が国内外でバッシングを受け辞表を出します。史実の平瀬さんも大学を去り、その後は彦根中学、花園中学の教員となります。

理由は定かではありませんが、大学での権力抗争に敗れた矢田部博士の一派として、排除されたのかもしれません。

その後、表舞台に立つことはなく、68歳で亡くなりました。

南方熊楠(みなかたくまぐす)と交流して松葉欄の発生順序(受精からの生育段階)一緒に研究していたとのことです。

ドラマの野宮さんは、後で述べるように南方熊楠からの情報を万太郎にもたらし、徳永教授と万太郎の対立が決定的になります。




らんまん野宮どうなる?オフセット印刷技術情報が寿恵子の商売魂に火をつける!

ドラマの野宮さんは、田邊教授が大学をやめたときに自分もやめればよかった、と語っていました。

そうしなかったのは、波多野さんとの研究が魅力的だったことと、万太郎のおかげで奮起したことだと打ち明けました。

「どこかで図画の教師になりますよ。」と言い残し、今後の交流を約束して、晴れやかに植物学教室を去って行きます。

史実の平瀬さんと同様に人物画が得意な野宮さんは、東京を離れる前に万太郎一家の肖像画を描きに長屋を訪ねてきました。

絵を描きながらの雑談の中で、野宮さんは西洋絵画の会で仕入れてきた印刷技術の情報をもたらしてくれます。

それは、石版印刷より新しい印刷技術で、アルミニウムを板状にして石板の代わりに使うもの。

その当時、アルミニウムの原材料であるボーキサイトが発見されたのですね。

アルミは石板より軽くて薄くて持ち運びも簡単。まげて輪転機にもできます。しかも大量に印刷ができる。

これ、オフセット印刷ですね。

野宮さんから自然に新しい印刷機への展開を結び付けるとは、相変わらず上手い演出だなぁと感心するワタクシです。

寿恵子さんは、新しい印刷機を買う資金をかせぐために、商売を始めることにします。

寿恵子が始めた待合茶屋の商売についてはこちらをごらんくださいね。

らんまん寿恵子(すえこ)渋谷の待合茶屋は実話?死因やスエコザサ学名は?今後どうなる?万太郎は?NHK朝ドラ

https://twitter.com/asadora_nhk/status/1699263652405084601





らんまん野宮どうなる?南方熊楠(みなかたくまぐす)との神社合祀反対運動

9月第2週に万太郎は南方熊楠(みなかたくまぐす)からの植物標本と、手紙を受け取ります。

新種を発見して学名をつけたので鑑定してくれというのです。

万太郎はびっしりと書かれた長文の手紙の熱量と、植物採集への情熱に感じ入ります。

その中に、120年に1度しか咲かないといういわれるハチク(淡竹)も含まれていました。

史実の南方熊楠は、日本が生んだ天才学者でエコロジストです。

ドラマでは「会ってみたいのう」と言っていた万太郎ですが、史実の牧野博士はライバル視していたのか、近くまで行っても会うことはなかったそうです。

南方 熊楠 (みなかた くまぐす)
1867年4月15日~1941年12月29日

南方熊楠は、和歌山県が生んだ博物学の巨星。東京大学予備門中退後、19歳から約14年間、アメリカ、イギリスなどへ海外遊学。さまざまな言語の文献を使いこなし、国内外で多くの論文を発表した。研究の対象は、粘菌をはじめとした生物学のほか人文科学等多方面にわたり、民俗学の分野では柳田国男と並ぶ重要な役割を果たした。生涯、在野の学者に徹し、地域の自然保護にも力を注いだエコロジストの先駆けとしても注目されている
出典:南方熊楠記念館

1906年(明治39)の終りごろから、内閣は神社合祀(じんじゃごうし)を全国に推し進めていきます。

神社合祀により多くの森林が伐採されることになり、南方熊楠は反対運動を繰り広げます。

東京大学の松村任三(じんぞう)教授にも長文の書簡二通を送ります。民俗学者の柳田國男が『南方二書』として印刷し、関係者に配布して運動を助けました。

松村任三(じんぞう)教授は徳永教授のモデルです。

ドラマでは万太郎が野宮からの手紙で、南方熊楠の運動を知らされます。万太郎は徳永教授から、この件には関わらないようにきつく言われます。

しかし、万太郎はたまらず徳永教授に意見し、徳永教授との間との溝は深まっていきます。




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