町田啓太さんファミリーヒストリーあらすじと結末「俳優・町田啓太~源平合戦まで遡るルーツ 職人だった祖父の思い~」まちだけいた

今回は、「ファミリーヒストリー 俳優・町田啓太~源平合戦まで遡るルーツ 職人だった祖父の思い~」をご紹介します。

2024年1月7日より始まる大河ドラマ「光る君へ」では、藤原道長のライバル藤原公任を演じます。

なんとご先祖様は源平合戦でも活躍!いったいどんなファミリーヒストリーがあるのか。さっそく見ていきましょう。






町田啓太さんファミリーヒストリー:町田姓のルーツを訪ねて

町田啓太さんは、平成2年(1990年)群馬県吾妻郡東吾妻町生まれの33歳です。

劇団EXILE出身、国宝級イケメンランキングNo. 1にも輝き、ルックスにも注目が集まってます。

登場した町田さんは、今番組の出演の数ヶ月前からソワソワ、今年1番の緊張だそうです。

初回放送:2023年11月24日

父方のルーツは群馬。「先祖は平家だと聞かされているが本当か」。調べると源氏の落人だと判明し、あの木曽義仲と関係する衝撃の事実が明らかに。一方、母方は栃木。教師だった高祖父は大正天皇と意外なつながりが。曽祖父は関東大震災から奇跡の生還。初めて知る事実に驚くばかり。そしてEXILEのHIROからメッセージも。さらに、職人だった父方の祖父が、厳しくしつけた本当の思いを知り、啓太は涙があふれ出した。

出典:公式サイト





町田啓太さんファミリーヒストリー:町田姓のルーツを訪ねて

町田さんの父方のルーツ、町田家は源平合戦から続く平家の血筋だと聞いたことがあるそうです。

真相は、どうなのか取材が始まりました。

父の晃一さんに自宅近くの町田家の墓へ案内いただきました。最も古い墓には、町田勘右衛門と刻まれていました。しかし、平家に関わる記述はありませんでした。

元々、町田家は、自宅から4キロ離れた広野という集落の出身です。

広野にある10軒の民家は、全て町田姓です。江戸時代に建立された八幡神社の墨書には、町田勘右衛門の名前が記されていました。

続いて地元の資料館を訪ねました。

町田姓についての史料の記述を調べたところ、「…広野は、町田姓の集落で源平合戦の頃の落人…」とありました。

町田姓はどんな武士だったのか、広野に隣接する渋川地区にも町田姓はありました。

郷土の歴史に詳しい楯巴さん。ご先祖は、木曽義仲の家臣 楯親忠の子孫で粟津の戦い(1184年)で、源頼朝と木曽義仲の源氏同士の主導権争いに敗れ落ち延びました。

楯家の墓を訪ねたところ、町田家の墓も併設してありました。

墓碑銘には、楯親忠は、存在が周囲に知れるのを恐れ、町田姓と名乗るようになったと記されていました。

ご先祖さまは、平家ではなく源氏、木曽義仲の家臣でした。源氏の落人だったのですね。




町田啓太さんファミリーヒストリー:父方の祖父は職人気質なブロック職人

父方の祖父 七郎は、子どもの頃から活発な少年でした。

父・久吉は、終戦後復員はしたものの、まもなくして40歳で死去。父の死後、母 ぜんも病死という身の上でした。

七郎は、中学校卒業後、東京へ出稼ぎ、ブロック職人として修業を積みました。

少しミスをするだけで金づちが飛ぶ厳しい世界で、商業施設や住宅などの建設現場で腕を磨きました。稼いだお金は、故郷の妹たちへ毎月仕送りをしました。

8年の修業を経て、23歳で帰郷、地元の建設会社へ就職をしました。学校や住宅などさまざまな工事を手がけました。

昭和36年に見合い結婚、翌年には、啓太さんの父、晃一が誕生、一男二女をもうけました。

七郎は、「ブロックしっちゃん・ブロしっちゃん」と呼ばれ、ていねいな仕事で腕がいい職人でした。

早く、確実、きれいがモットー。性格は頑固、仕事にプライドを持ち、自分のやり方を通すような人物でした。

子どもに対しても厳しく度を超す、『巨人の星』の父・星一徹のようなスパルタな父だったそうです。

長男 晃一は、文武両道で高校卒業後、宇都宮大学へ進学しました。




町田啓太さんファミリーヒストリー:母 齋藤家のルーツ5代前先祖 齋藤齋

啓太さんのもうひとつのルーツ、母 敦子さんの齋藤家をたどります。

栃木県那須烏山市の齋藤家は、啓太さんの伯母 直子さんに案内いただきました。古い蔵から5代前の先祖、齋(いつき)の肖像画が出てきました。

近くにある烏山藩主の建てた東江(とうこう)神社の石碑には、「社掌(宮司)齋藤齋」と記されています。

齋は、宮司で寺子屋の師匠のような存在で地域の文化のリーダーでした。城主からも尊敬される人物だったようです。

明治維新により烏山藩が消滅、齋の長男・久米治は、立身出世のため勉学にはげみました。

国学、漢学が得意で、地元では、神童と周囲が認めるほどの有名な子でした。

明治14年、18歳で小学校教員免許を取得、その後、10倍以上倍率の超難関、中学校教員試験も取得しました。

国立国会図書館に収められている教員名簿を見ると、徳島県尋常師範学校助教諭に久米治の名があります。

そして、愛媛県尋常中学校の嘱託教員には夏目金之助(のちの漱石)の名が記されています。

なんと、漱石とは同時代に同じ四国の教壇に立っていたこともわかりました。『坊ちゃん』のモデルに登場しているかもしれませんね(^^)




町田啓太さんファミリーヒストリー:高祖父・久米治 大正天皇とのつながり

30歳になる久米治の元へ大手出版社から仕事の依頼がありました。

それは、明治28年小学校作文教科書生徒用と教師用の作成の依頼です。教育方法や考え方が綴られています。

その後、久米治は栃木へ戻り6つの小学校の教員や校長を勤め、同時期の頃には、大正天皇の前で授業をする「御前教授」の大役を任されていました。

御前教授は、天皇の前に出るのに相応しい品性、見識が必要でいろんなものを兼ね備えた人物であったことがうかがえます。

また、曽祖父・珍彦(うつひこ)は、語学が堪能な人物でした。

大正12年アメリカ資本のバキュームオイル(現エクソンモービル)社に就職、すらっとしたオシャレな人でした。

丸ノ内、横浜で勤務、大正12年9月1日の関東大震災で被災をしています。がれきの下敷きとなった珍彦でしたが大きな余震が幸いとなってがれきから抜け出し、がれきと火災から逃げ出しました。

1年後、関東大震災後の思いが珍彦の日記には記されています。

昭和7年、珍彦は、故郷へ戻り役場に就職をして妻と6人の子どもに恵まれ穏やかな日々をおくりました。

昭和37年には、啓太の母・敦子が誕生しました。




町田啓太さんファミリーヒストリー:父と母の出会い、啓太の誕生

昭和55年(1980年)宇都宮大学へ入学した啓太さんの父・晃一は、バードウォッチング部の看板を見て入部を決めました。

部室へ行ったところ母の敦子がおり、晃一は敦子のかわいさに心ひかれました。そのとき、敦子は、OBの人か先輩だと勘違いをしたそうです。

晃一は老け顔で、敦子は晃一を同級生だとは思いませんでした。

晃一と敦子は部活動で一緒になると、敦子は誠実で社交的、人に対して優しい晃一の姿に心ひかれました。

大学卒業後、晃一と敦子は共に教師となります。24歳の昭和61年(1986年)に結婚し、4年後に啓太さんが生まれました。

幼い頃の啓太さんは、引っ込み思案な性格。保育園のバスに乗れないくらいの臆病でした。

両親が仕事で忙しく、啓太の面倒を見たのは父方の祖父母でした。

特に祖父・七郎は50代でガンを患いながらも、気の弱い啓太を心配して厳しくしつけました。強めの言葉のスパルタ教育でした。

啓太さんも泣きながら応じていたそうです。

七郎の啓太さんへのスパルタ教育は、大人になるまで続きました。その甲斐あって啓太さんは、小学校6年の時には剣道県ベスト8に輝く活躍を見せます。

また、高校ではダンス部の部活にのめり込みました。




町田啓太さんファミリーヒストリー:町田啓太とは 受け継がれたマインド

将来はダンサーになることを志した啓太さん。大学2年生の時に、芸能プロダクションに入りました。

舞台で経験を積み、ある舞台の本番中にアキレス腱を断裂しました。しかし、最後まで演じ周囲を驚かせました。

啓太さんの師 EXILEのHIROさんは、ストイックさが普通じゃない!とびっくりしたそうです。

しかし、啓太さんはケガがかさなり、ダンサーの道をあきらめなくてはならなくなります。

それでも舞台へ出たい!と俳優になることを決意。発声・演技の練習を繰り返しました。

圭太の父は、「一度決めると曲げない自分の気持ちを通すところは、祖父・七郎譲りだ」と感じています。

デビューから4年後、啓太さんは、NHK連続テレビ小説『花子とアン』に出演、町田は鈴木亮平さん演じる村岡英治の 弟役・村岡郁弥を演じました。

主人公花子(吉高由里子)の義弟役でですね。以来、実力派の若手俳優として注目を集めています。

HIROさんは、一生懸命打ち込む啓太さんの姿勢や考え方、人間性を高く評価していて「努力すれば返ってくるのでこのまま頑張ってほしい」とメッセージを送りました。

母方の高祖父・久米治が明治時代に校長をつとめた佐野東高校(旧佐野高等女学校)の校是には、「啓(ケイ)  知を啓き 心を啓き 新しい伝統の扉を啓く」とあります。

啓太さんの啓は「ひらく」とも読むのですね。

久米治さんの教育目標や理念が引き継がれ、啓太さんの生きざまにも受け継がれていきます。