妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)のあらすじをご紹介します。
大化の改新の藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の蘇我入鹿(そがのいるか)討伐をベースにした物語です。
この演目は大きく2つに分かれていて、2つともこの事件に翻弄される若い娘の悲恋が描かれます。
目次
【文楽】妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)あらすじ前半:久我之助(ごがのすけ)と雛鳥(ひなどり)の悲恋
前半(大序~三段目)は、日本版ロミオとジュリエットともいわれている人気作品です。
吉野川をはさんで紀伊国(きいのくに)と大和国(やまとのくに)があります。
それぞれの国を治める敵対しあう2つの名家に生まれた息子・久我之助(ごがのすけ)と娘・雛鳥(ひなどり)が主役。
二人は親同士が敵対していると知りつつ、ふとしたはずみで知り合って恋に落ちます。
両家は入鹿(いるか)からそれぞれ無理難題をふっかけられ、お互いの家の子どもの命を助けようと自分の子どもの命を犠牲にします。
妹山と背山の間を流れる吉野川。ふもとで向かい合う二つの家。
クライマックスでは川を挟んでの両家それぞれの出来事と、その後の両家の親同士のやり取りが描かれます。
文楽では太夫と三味線が座る床が下手側にも設置されます。
歌舞伎では、両花道を使って、川に隔てられた両家のやりとりがより効果的に演じられます。
大序・一段目・二段目のよりくわしいあらすじもご覧ください。
国立文楽劇場でひたすら妹背山婦女庭訓。昼休憩中ですがまだまだ先は長い。特に山の段が楽しみです。#文楽をみよう pic.twitter.com/N5Bd2NtVXj
— sou (@Ino_sou) April 15, 2023
【文楽】妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)あらすじ後半:お三輪の苧環がモチーフ
後半(四段目~五段目)は、登場人物と場面ががらりと変わります。
裕福な商家の娘・お三輪がヒロイン。
苧環(おだまき)がモチーフ。苧環というのは、つむいだ麻糸を玉のようにくるくると丸く巻いた糸巻きのようなものです。
箱入り娘として何不自由なく育ったお三輪は、身分を偽って近くに越してきた求馬(もとめ)と恋に落ちます。
実は、求女は鎌足の息子。すでに入鹿を倒すために入鹿の妹の橘姫に近づいて恋仲になってもいます。
求女を訪ねてきた橘姫と共に出て行った求女。
とっさに求女に糸を結び付け、苧環を回しながら後を追っていくお三輪。
糸が切れて求女を見失い、迷い込んだのは入鹿の館。求女と入鹿の妹の姫の婚礼があると知らされます。
お三輪は召使の女たちに退屈しのぎにさんざんいじめられます。さらに、館にいあわせた男・鱶七(ふなしち)に切られてしまいます。
嫉妬と怒りに悶えるお三輪。
しかし怒りに狂う「嫉妬深い女の血」が入鹿を倒すのに役立つと知らされ、恋しい人の役に立ったと満足して死んでいきます。
お三輪ちゃんのせつない道行恋苧環はこちらもご覧ください。
『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』四段目・五段目あらすじ道行恋苧環お三輪
— ぶぶ (@yhoobooboo) August 7, 2023
『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』とは?意味や概要
奈良の大和地方に伝わる三輪山伝説などを取り合わせ、謡曲などへのオマージュが感じられるスケールの大きなロマンティックな作品です。
妹背(いもせ)は、愛し合う男女、夫婦のことを指す古い言葉です。
妹が女で、背が男になります。
そして妹背山(いもせやま)は、男女のペアに見える実在の山のことで、妹山と背山を合わせて妹背山と呼びます。
『庭訓(ていきん)』というのは、子が親に教える家庭の教訓やしつけのことです。
婦女庭訓というのは嫁入り前の女の子のたしなみといったところですね。
全編で五段(五幕)あり、一段目にあたる<大序>はプロローグ部分です。
ここで主要な登場人物がつぎつぎと登場して、相関関係や力関係が明らかになります。
二段目(猿沢池、鹿殺し、芝六住家)は内容が暗く、上演は珍しいのですが、2019年5月令和初の東京公演では第一部・第二部にわけて全編上演されて連日満員でした。
この投稿をInstagramで見る
『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』作者の近松半二(ちかまつはんじ)どんな人?
近松半二は、今からおよそ300年前の享保10(1725) 年生まれ。
父は浄瑠璃界に関係のある儒学者・穂積以貫(ほづみこれつら)。
父について劇場に通ううちに二代目竹田出雲(たけだいずも)に入門。近松門左衛門にあやかり近松という苗字を名乗ったといわれています。
初作『役行者大峯桜(えんのぎょうじゃおおみねざくら)』の合作から、文楽や歌舞伎で人気の作品を多く残しています。
主な作品は、『奥州安達原(おうしゅうあだちがはら)』『本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)』、『傾城阿波の鳴門(けいせいあわのなると)』、晩年の『新版歌祭文(しんぱんうたざいもん)』、遺作『伊賀越道中双六(いがごえどうちゅうすごろく)』など、
『妹背山婦女庭訓』が大阪道頓堀で初演されたのは、明和8(1771)年です。
この時期は人形浄瑠璃の芝居小屋があいついで閉じるなど、興行的にはピークを過ぎていましたが、新作はぞくぞくと生み出されていました。