吉田簑助(よしだ みのすけ)さま :人間国宝の人形遣い!名女形(たておやま)のWiki的プロフ:振袖の世界も

こんにちは~。 らら子です。

今回は、人形遣いの人間国宝の三代目・吉田簑助(よしだ みのすけ)さんをご紹介します。
言わずと知れた文楽を代表する立女形(たておやま)として有名な方です。

らら子は簑助さまとお呼びしております。

簑助様の遣う人形はナニカが違います。表情を変えずに淡々と遣うその人形は「息づいている」という月並みないい方では言い表せないそのナニカがあります。らら子はそのナニカに魅了されております。らら子は簑助様が登場するときは、いつもそのナニカを味わうために五感をいっぱいにして拝見しております。

どんな方なのでしょうか?さっそくプロフィールを見ていきます。




吉田簑助さんのプロフィール、年齢や出身、芸歴は?家族は?息子は?

こちらが吉田簑助さんのプロフィールです。

誕生日:昭和8(1933)年8月8日
出身地:大阪府
本 名:平尾 勝義(ひらお かつよし)

[芸 歴]

  • 昭和15(1940)年 6月 三代吉田文五郎(よしだ ぶんごろう)に入門
  • 昭和17(1942)年 3月 桐竹紋二郎(きりたけ もんじろう)と名のる
  • 昭和18(1943)年 6月 絵本太功記「本能寺の段」の三法師丸が初役 於四ツ橋文楽座
  • 昭和23(1948)年 8月 二代桐竹紋十郎(きりたけ もんじゅうろう)の門下となる
  • 昭和36(1961)年 6月 東京・三越劇場において、三代吉田簑助(よしだ みのすけ)襲名
  • 「ひらかな盛衰記」のお筆、「生写朝顔話」の朝顔、「仮名手本忠臣蔵」の小浪で披露
  • 平成 6(1994)年 6月 重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される
  • 平成21(2009)年11月 文化功労者
  • 平成24(2012)年12月 芸術院会員

吉田簑助さんは昭和8年8月8日生まれ。なんとおめでたい末広がりでしょうか。文楽の本場、大阪に生まれます。お父様は人形遣いの二代目桐竹紋太郎(きりたけ もんたろう)さんです。

昭和15(1940)年に数えで7才(満6才)の6月に二代目・吉田文五郎さんに入門します。8才の3月 桐竹紋二郎(きりたけ もんじろう)と名のり、10才の時に初役が付きます。

今では文楽の世界に入るのは中学を卒業してからのことが多いですが、戦前のことなので、今とはずいぶん違うでしょうね。

その後、昭和23(1948)年 8月 二代桐竹紋十郎(きりたけ もんじゅうろう)さんの弟子となり、昭和36(1961)年 6月に師匠の紋十郎さんの前名でもあった簑助を三代目として襲名します。

その後の活躍は目覚ましく、平成 6(1994)年 6月に、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、平成21(2009)年11月 文化功労者となり、平成24(2012)年12月 芸術院会員となりました。

吉田簑助さんの奥様がいらっしゃるのは確かですが、息子さんがいらっしゃるかはわかりませんでした。





吉田簑助さんの文楽入門のきっかけは?父子愛。

吉田簑助さんは、文楽の本場、人形遣いの家の三男として生まれ、物心ついたころから一人で人形遣いごっこをして遊んでいたそうです。

お父様の二代目桐竹紋太郎(きりたけ もんたろう)さんは遅く生まれた簑助さんをとてもがわいがり、4~5才から楽屋に連れて通ったそうです。

楽屋に出入りしてちょっと雑用を頼まれたりするうちに、子ども用の黒衣が用意され、父・紋太郎さんの本名(平尾 辰之助)の一字を取って、「小辰(こたつ)」という芸名をつけて本格的に楽屋の手伝いをするようになりました。

やがて小学校に上がるころになると、簑助さんは人形遣いになりたいと本気で思うようになり、父・紋太郎さんに願い出ると打って変わって猛反対。親心としては、人形遣いの厳しい道には勧めさせたくなかったのかもしれません。

簑助さんはあきらめずに願い続け、父・紋太郎さんも根負けし、人形遣いの道に進むことを許されます。そして紋太郎さんの判断で三代・吉田文五郎さんの内弟子になります。

この時、簑助さん7才。「他人の家の飯を食う」のが修行の一環という紋太郎さんの考えでしょうが、内弟子というのは師匠の家に住み込みですから、ご家族も思い切った決断ですね。

こうして人形遣いとしてのキャリアをスタートさせた簑助さんですが、昔のことなので体罰もあったそうです。舞台上で小道具を忘れたので主遣いの人に叩かれたとか、その姿を反対側でお父様が切なそうな表情で見ていたという話も読みました。





吉田簑助さんの受賞歴は?紫綬褒章、日本芸術院賞、芸術文化勲章コマンドゥール など

吉田簑助さんは、多くの賞を受賞していらっしゃいます。文楽協会のサイトによると昭和33(1958)年 1月の芸術祭奨励賞を皮切りに、大阪府民賞、国立劇場の奨励賞、国立劇場文楽賞文楽大賞などを総なめ。

平成に入ってからはさらに賞が大きくなります。

平成8(1996) 年4月には紫綬褒章、平成 9(1997)年7月に1996年度(第53回)日本芸術院賞と、国家的な大きな受賞を成し遂げます。

さらに平成14(2002)年 1月には 第21回(平成13年)国立劇場文楽賞文楽特別賞。

平成18(2006)年 6月には 日本を飛び出してフランスの芸術文化勲章(Ordre des Arts et des Lettres)のコマンドゥール( Commandeur)の叙勲を受けます。

平成19(2007)年 4月には再び 第26回(平成18年)国立劇場文楽賞文楽特別賞を受賞、平成29(2017)年 2月に平成28年度大阪文化祭賞優秀賞、と留まるところを知りません。




吉田簑助さんの受賞歴詳細一覧

あまりにもたくさん受賞していらっしゃるので、割愛しようかと思いましたが、私自身が何度も眺めたいのでここに転載します。出典は文楽協会です。

昭和33年 1月 芸術祭奨励賞
昭和40年 2月 大阪府民劇場奨励賞
昭和40年12月 大阪文化祭賞金賞
昭和44年 5月 国立劇場奨励賞
昭和45年 3月 芸術選奨文部大臣新人賞
昭和49年 2月 国立劇場奨励賞
昭和53年 2月 大阪府民劇場奨励賞
昭和53年 8月 国立劇場奨励賞
昭和59年 1月 大阪文化祭賞本賞
昭和61年 1月 第5回(昭和60年)国立劇場文楽賞文楽大賞
昭和63年11月 市民表彰
平成元年 1月 毎日芸術賞(第30回)
平成元年 1月 第8回(昭和63年)国立劇場文楽賞文楽大賞
平成元年 4月 大阪日日新聞水都祭賞
平成 3年 2月 大阪府民劇場賞
平成 4年 5月 大阪府知事表彰
平成 5年 3月 第14回松尾芸能賞優秀賞(伝統芸能)
平成 7年 3月 NHK放送文化賞
平成 7年11月 大阪芸術賞
平成 8年 4月 紫綬褒章
平成 9年 7月 1996年度(第53回)日本芸術院賞
平成14年 1月 第21回(平成13年)国立劇場文楽賞文楽特別賞
平成18年 6月 フランスより、芸術文化勲章コマンドゥール
平成19年 4月 第26回(平成18年)国立劇場文楽賞文楽特別賞
平成29年 2月 平成28年度大阪文化祭賞優秀賞

出典:文楽協会

簑助さんはこの通り、華々しい受賞を重ねていらっしゃいます。

いっぽうで、この陰には昭和から平成にかけての人形の首(かしら)づくりの名人の大江巳之助さんがあってこそだと常々語っていらっしゃいます。

大江巳之助さんはすでに亡くなっていますが、お名前の読みも奇しくも「みのすけ」。このような出会いに、私はやはり文楽の神様の采配を感じずにはいられません。

お二人の絆についてはNHKBSスペシャルの『吉田簑助の人形芝居紀行』という番組で大江さんの病床を見舞うという場面があるそうです。一度見てみたいと思っています。





吉田簑助さんの病気:「足遣いでもいいから、もう一度人形遣いに戻りたい」山川静夫さんとの友情

華々しくご活躍の簑助さんを病魔が襲ったのは、平成10(1998)年11月のことです。多忙を極める中、公演中の楽屋の脱衣所で倒れているところを、豊竹咲太夫さんに発見されました。

ただちに救急搬送されて治療を受けられたものの「失語症」と右手のマヒを負います。

「足遣いでもいいから、もう一度人形遣いに戻りたい」という一心で、人の二倍、三倍のリハビリで驚異の復活を遂げられます。

倒れた翌年平成11(1999)年7月8月の大阪文楽劇場での公演『桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)』のお半役で舞台復帰。客席は万雷の拍手だったそうです。

今もウォーキングや筋トレを欠かさずトレーニングを重ねていらっしゃるそうです。

同じ時期に、奇しくも脳卒中で倒れた元NHKアナウンサーの山川静夫さんも失語症を患い、やはり懸命のリハビリの結果、復活しました。

おたがいに訓練として文通を約束し励まし合ったといいます。お二人それぞれの闘病と交流は下記の本に詳しいです。涙なくしては読めません。

吉田簑助,山川静夫『吉田蓑助と山川静夫 花舞台へ帰ってきた。―脳卒中・闘病・リハビリ・復帰の記録』淡交社,2007.




吉田簑助さんと三世桐竹勘十郎さんとの師弟愛

文楽界のファンタジスタ三世・桐竹勘十郎さんは、吉田簑助さんの一番弟子です。

父の二世・桐竹勘十郎さんからは立役を、師匠の吉田簑助さんからは女役を受け継いだといわれています。吉田簑太郎さんは勘十郎の息子さんで親子でありながら兄弟弟子になります。

簑助さんが倒れられた時に、当時は簑太郎を名のっていた勘十郎さんは、入院先の病院に「右手の感覚が戻るように」とゴムボールを届けたそうです。

「足遣いでもいいから、もう一度人形遣いに戻りたい」との思いから、簑助さんはボールに「足」と何か所も書き込み、懸命にリハビリに励みました。

くたくたになったボールはしばらく楽屋に飾ってあったといいます。

簑助さんの復帰の舞台では、勘十郎さんはほかの役で主遣いを勤めながら、黒衣姿で簑助さんの左遣いも勤められたそうです。それだけうれしかったのですね。

その後、三世・桐竹勘十郎さんが襲名の時、記者会見に同席した簑助さんは、記者の要請に応えて人形を構えたときに、ごく自然に人形の左遣いを勤めた簑助さんの姿に、居合わせた人は弟子の襲名を心から喜ぶ簑助さんの姿に感じ入ったといいます。

言葉に不自由さが残った簑助さんは、平成15(2003)年の桐竹勘十郎襲名公演の「口上」では「三代目、桐竹勘十郎をよろしくお願いします。」の一言のために裏山を散歩中大声で練習をしたそうです。




吉田簑助さんと初代・吉田玉男さんとの名コンビ愛と絆「いついつまでも添うてください。」

吉田簑助さんと初代・吉田玉男さんは、名コンビでならしました。特に、お初・徳兵衛で知られる『曾根崎心中』は、一度は上演が途絶えたものの玉男さんと簑助さんらの尽力で復活上演し、人気を博しました。

(BONさんアップありがとうございます)

1111回の上演を記念したセレモニーでは、簑助さんが遣うお初人形が、玉男さんが遣う徳兵衛人形に真っ赤なバラの花束を舞台上で手渡す粋な計らいがありました。

簑助さんは、真っ赤なバラをご自分で用意し、カードには「いついつまでも添うてください。お初・簑助」というメッセージが添えられていたそうです。

なんてロマンティック。簑助さんの乙女心が炸裂です。

初代・玉男さんは、平成17(2005)年8月を最後に舞台から遠ざかり、惜しくも平成18(2006)年9月24日に亡くなります。

その日は、東京で『仮名手本忠臣蔵』公演中。その知らせは幕間時間に楽屋に知らされたそうです。

その時、吉田簑助さんは座頭格の立役である大星由良助を勤めていました。女役が多い簑助さんは、本来ならばおかるを勤めるのが順当です。しかも大星由良助は玉男さんの当たり役です。どのような思いで勤められていたのか、想像するだけで胸がいっぱいになります。

こういうお話を見ききするにつけ、もっと早く文楽ファンになっていればよかったと思います。





吉田簑助さんの振袖の世界:吉澤織物(よしざわおりもの)の簑助さん着物ブランド

着物好きのワタクシらら子としては見逃せないのが、簑助さんプロデュースの振袖です。

新潟県十日町市にある吉澤織物(よしざわおりもの)では、「文楽・人間国宝 吉田簑助の世界」としてブランド展開をしています。

文楽の中に女性の美しさを求めてきた「吉田簑助」先生。
変わる事のないその美意識が、
和の世界を彩るきものに見事に結晶しました。
長い歳月をかけ伝え、洗練してきた意匠の数々が、
優美な個性となって華やかさを競います。

出典:公式サイト

よしざわの着物ブランド他にも『吾妻徳穂 踊りの世界」 なども。

若いお嬢さんに古典柄。華やかですね。





吉田簑助さんの著書

吉田簑助さんの著書は上でご紹介した闘病記の他にもいくつかあります。簑助さんを知るにはおススメします。

吉田簑助『頭巾かぶって五十年ー文楽に生きて』淡交社,1991.

渡邉肇, 吉田簑助『簑助伝 』diapositive,2015.

吉田簑助, 山川静夫『文楽の女: 吉田簑助の世界 』淡交社,2016.





らら子的萌えポイント:簑助さんに堕ちた瞬間。

ぼやぼやしていた吉田簑助さんを最初に認識したのはいつだったか。

いつも、その舞台を拝見しては驚いてばかりのらら子ですが、初めて「すごい」と思ったのは、平成26(2014)年2月東京公演の第三部『本朝廿四孝』の十種香の段の八重垣姫でした。

今思うと、この第三部の布陣が素晴らしく、濡れ衣が吉田文雀さん、床は豊竹嶋大夫さんという、今はも拝見できない顔合わせでした。

まだ文楽を見始めて2~3年の頃、この時の驚きはつたない観劇記に残してあります。

2014年2月文楽公演三部:御所桜堀川夜討(ごしょざくらほりかわようち)本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)

その後、本当にハートを撃ち抜かれたのは、平成29(2017)年2月の『平家女護島』「鬼界が島」のでした。簑助さんの千鳥は健康美にあふれたはつらつとした娘です。すでに夫婦として暮らしているので、ふとした拍子に艶っぽかったりするのですが、私が一番きゅんとしたのは、いろいろあった末に都に帰る船に乗った時の千鳥の動き。

船に乗るや、浜に残る俊寛に向かってさっと手を高々とあげて惜別の想いを託します。なんと健気な。さきほど出会ったばかりで俊寛とは父娘とも思おうといい交わしたばかりの俊寛との別れ、そして俊寛への申し訳ない気持ち、すべてがその高々と差し上げた手に凝縮している気がしました。

それがらら子が簑助さんに堕ちた瞬間でした。



らら子的萌えポイント:簑助さんのポーカーフェース

「まるで生きているような」とは文楽の人形に対してよく言われることですが、簑助さんの生き生きとした人形はそのレベルをはるかに超えています。

いっぽう、その生き生きとした人形をまったく無表情で遣っている簑助さん。みなさんそれなりに力の入った表情をしていたりものですが、簑助さんはどの舞台写真をみてもいつも同じ表情です。

無表情さについては、内弟子時代の師匠である吉田文五郎さんが

「人形遣いというものは、人形と同じ表情をしたり、同じように動いては見苦しい。心情的には不即不離でも人形と人形遣いの間には、熱い鉄の扉がある」

と語ってたというのを『花舞台へ帰ってきた』に書いてあるのを読んで、少しわかったような気がしました。

簑助さん自身は「役の心になりきる」と思って遣っていらっしゃるそうです。




らら子的萌えポイント:簑助さんの人形が生きている秘密

いつも思うのは、簑助さんの人形は胸のあたりの動きがナニカ違う。ただたおやかなだけでなく、ついっと胸が前に出る感じが、他の人形遣いの人形にはない動きを見せるように思います。

それから人形から簑助さんの体の位置が他の人形遣いに比べるとやや距離があるような気もします。

簑助さんの指は長いという話を聞いたことがありますが、簑助一門の吉田一輔さんもいつかインタビュー記事で、簑助さんの動きの秘密はわからないとおっしゃっていました。

人形遣いは、それぞれ体の大きさも、手の大きさも、腕の長さも違うので、同じ動きにはならないのでしょうね。

ご自身も人にはお弟子さん達にも明かさないようにしているとのことです。

これからもますますのご活躍をお祈りしております。

参考にさせていただいたサイト
公益財団法人 文楽協会
ら・文楽 技芸員にきく 吉田簑助インタビュー

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